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2009年11月17日 (火)

続、生と死

わたしたちは、死を考えるとき、健康に恵まれて長く生きても100年そこそこ、殆どの人は90歳までにこの世を去ります。

死ぬのは嫌だけど死ねなかったらどうなるのだろう。これはある意味地獄だと思います。もちろん、今生きている、今まで生きてきた人生が永久に続くとすればですけれども。

人生、どちらかといえば苦しいこと、悲しいことが殆どで、楽しいことはたまにあるだけだといえます。死ぬことがなければ、この世は地獄だと思いませんか。そして、この世の素晴らしいことは、すべて色あせてしまうでしょう。


わたくし、この年になって思うのですが、80数年の人生は、本当に長くもなく短くもなく、人間が成熟するのに適当な長さだと思えるのです。

また、命に限りがあるからこそ、与えられた人生を一生懸命生きようと、人生を意義あるものにしたいと思うのではないでしょうか。

やり直しのできない一方通行の人生ですからね。何時死ぬか分からないからこそ、より深く情熱的な愛が生まれるのではないでしょうか。時間の中に生きると言うことはそういうことだと思います。

死は残酷に見えます。死んでいく親を見ると、まことに残酷で切ない。たとえ聖書が教えるように、その霊魂は生きつづけるとしても、現世に、時間の中に生きる人間には目に見える肉体の死がすべてであります。

しかし、時間の外に存在する神にとっては、人間の肉体の死は人間存在の単なる一通過点に過ぎないのではないのだろうか。

死は、人生の究極的な神秘であり、避けることができないもの。年代を問わず誰にでもいつ訪れるかもしれないという意味で、人生の同伴者として、いつも私たちとともにあるといえます。

避けることのできない同伴者ならば、つきあい方により人生に大きな意味を持つものとなるのではないでしょうか。

そういう意味で、死への恐れを、生かすも殺すもその人次第といえると思います。現実に、死の恐れを積極的に捉え、乗り越える人も大勢おられます。キリストを信じていない人にもそのような人が沢山おられます。

人は、信仰を持っていようがいまいが、親しい人と死に別れれば、また天国で会いましょうと、心に思います。願望も含めて次の世に希望を託すのですね。

死は生の一部である、という言葉があります。そうです、聖書の教えから見れば、肉体の死は生の一部なのです。肉体の死は、次の世への一里塚なのです。

人間は霊的存在であるともいいます。本来人間は霊が本体であり、人間はこの世では肉体をまとい霊的活動はそのため制約されています。

肉体の死により、霊が解放されることとなっています。これが本当なら先に死んだ人との再会の希望をもてます。聖書によると、生まれるのも死ぬのも神の手の中。その人にとって最善の時に命を与え命を取られると思うのです。

この世での死は、肉体の死しか目には見えないので、死が近づき苦しんでいる病人を見ていると、非常に残酷に見えますが、ある医者の話しですが、これは肉体が苦しんでいるだけで、本人は意識がない場合が多く苦しみを知らないと書いてありました。

このような例もありました。重症で苦しんでいた方が、運良く回復されたのでその人が苦しんでいた状態を言って、さぞ苦しかったでしょうと聞いてみましたら、覚えていないということです。つまり気を失っていたのですね。

それなのに身体だけはもだえ苦しんでいる。神様はきっと、死ぬ時にも耐えられないような苦しみは与えられない。余りにも苦しい時には気を失って何も分からない内に死んでいくように出来ていると思いませんか。

人間が死ぬ時、死に方も神様の手の内にありますから、死ぬ時の恐れとか痛みにもきっと配慮されていると思います。

また、イエスの生涯を幻でみた人が書いた本には、生き返ったラザロの言葉としてラザロが自分の死について、「死、それがどうだったか、しかとは覚えていません。

大変な苦しみの後に衰弱が続いて・・やがてもう苦しみ失せ、ただ眠りたい、眠いという感じでした。光りと音とはますます遠のいて弱くなって・・・私は辛そうで苦しげだったそうですが、よく覚えていません」、

といっていた、と記してあった。これは死について何かヒントを与えるような気がします。

死に際というのは、肉体が苦しんでいるから本人も苦しいのだろうと傍は思いますが、案外そうではないのではと、最近思うようになりました。

わたしは、やはり両親とか親しい人々と次の世で会えると、希望を持って死にたいと思います。

なぜなら、肉体はこの世で生きるのに必要だからあるだけで、この世の役目を終えた肉体は土に帰るが、霊魂は次の世で生き続ける。これは、イエスの生き様をみればよく分かります。

イエスは十字架に架けられ肉体は滅んだが、三日後に霊の身体で復活されたと聖書には書いてあります。

聖書でみるように、肉体と霊魂が別で霊魂は死後も生きるとすると。死は肉体の死であるといえます。

死を恐れているわたしは、霊魂がわたしの本体とすれば、死を体験する肉体はわたしの本体ではない。

わたしとは、自分の肉体に起こる死という出来事を不安がったり恐れたりする霊魂であるといえます。

そのわたしは長い人生で、経験してきたこと、やってきたこと、そして家族や友人、今生きている人、すでに亡くなっている人、すべて縁あって関わりをもったすべての人たちとの交わりの中で形成された人格であります。

聖書では、肉体が死んでもその人格をもった霊魂であるわたしが変わるわけではないし、消滅するわけではありません。

わたしはひとりではなく、わたしを形成したそれらの人たちと一緒に身体(肉体)の機能の終焉に直面するということです。

その意味で肉体の死は人生の中の一局面、一過程にすぎないから、人は生きたように死ぬということになるのでしょうか。

先にわたしは死ねない人生なんて地獄だと書きましたが、人間の霊魂は本来永遠に生きるということになると、それも地獄であると思いますが、よく考えると制限された時間の中で永遠を考えるから地獄なので、時間のない世界に行けばそれもどうなるかわかりません。

退屈という気持ちもなくなるでしょうからね。イエスを信じる者は永遠の命を得ると書いてありますが、この永遠の命というのは時間のことではなくて、神と共に生きる命を指しているのだと思います。

その神と共に生きる命が天国のことだと思うのですが、聖書には天国の様子を次のように書いてあります。

新約聖書ヨハネの黙示録第21章1から4節、「最初の天と地は去って行き、・・神は人と共に住み、人は神の民となる。

神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」。

もちろん、現世で身につけた記憶や知識や体験はそのまま残ります。このような世界なら永遠に生きてもいいかもしれません。

死は生の一部であるともいいます。それにもかかわらず、人が死を恐れるとか不安に感じるのは、死が未知の体験であり、その彼方の世界とそこでの自分を、今までの経験から予測することができないからであると思います。

死は経験していない未知のものだから、取り乱しておそれる人も架空の想像上の死を恐れているのではなかろうかとも思います。

わたしは、聖書に出会い、そのように死への恐れが観念的なものなら信仰を持てば乗り越えられるのではないかと思うようになりました。これも死ぬための準備と心得ております。

わたしは、自己の死に様と彼方の世界に対する不安と恐れを思います。

だから、死にさいしても、死後も自分と一緒にいてくださる方を、地上の人生において少しでも確かにしておけたらと期待するのです。この願いが宗教というか信仰の一つの要素であると思います。

阿弥陀仏を念じて生きた仏教徒は、阿弥陀仏と一緒に死を迎える。イスラム教徒はアラーの神と一緒に死を迎える。

ヤハウェを信じて契約の中に歩んだイスラエルの人々は、死を迎えるときヤハウェが一緒にいてくださることを知り、恐れを克服する。キリストを信じて生きてきた者は、死に面してキリストが待っていてくださることを知っている。

キリストに属する者は死にさいして、イエスの、「今日、あなたはわたしと一緒にパラダイスにいる」、「わたしはあなたと一緒にいる」という言葉を信じている。

これが信仰と言うものだと思うのです。私も肉体の死を迎えるときには、キリスト者のはしくれとしてそのようにありたいと思います。

最後に詩人ノヴリスの言葉を紹介します。「生は死の始まりであり、生きることは死ぬためである。死は終結であると同時に開始であり、別離であると同時に近しい結びつきである」。

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