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2009年11月 1日 (日)

神との出会いの構図

神との出会いはどのような形で起こり得るのか、これは人間にとって大きな問題であ
ります。典型的な例として、旧約聖書にあるイスラエル民族における神との出会を観てみたいと思います。

旧約聖書は神話と歴史上の出来事でできていると思います。この中の歴史上の出来事には、出来事から体験された意義が込められていると思うのですがいかがでしょうか。

旧約聖書の中のイスラエル民族は、長い歴史の中で、語り継がれてきた伝承に自分たちの体験を付け加えて、次世代に渡していくということに情熱を傾けてきたと思います。


伝承が体験と結びつくことがなければ、伝承は単なる言葉のままで終るし、逆に体験が伝承と結びつくことがなければ、体験の意義を深めることができません。

つまり、神との契約とか預言者を通して語られる預言という伝承を、歴史の中で伝承と体験を一つ一つ結びつけて確認する。

こうして伝承と体験が一つに結び合わされたときに、歴史は意義を持ち、生きたものとなる。もし、伝承と体験が結びあわなかったらイスラエル民族の神との出会いはなかったのではないでしょうか。

そのようにしてイスラエル民族は、自分たちの歴史の中に神の存在を見、独特のアイデンテイテイを形成していったと思うのです。

旧約聖書は、伝承が語り伝えられてゆく間に、伝承にある出来事が奇跡的に実現したと思われることを体験し、その体験をすることによって伝承に新たな見方が加わり、また誇張もされて現在の形に発展してきたものと思います。

伝承の発展が固定化したのは、モーセ五書の場合は、紀元前400年頃といわれています。

神との契約とか預言者を通して語られる預言という伝承を現実として体験することにより、伝承が真実として生きたものとなりました。

歴史上の出来事をバラバラで見るのではなしに、一対として見ているのです。

だから、旧約聖書にある1300年に及ぶイスラエル民族の神との出会いの歴史は、決して偶然の寄せ集めではなく、同じ神の言葉が語られ、一つの目的をもち全部がつながっているといえます。

旧約聖書を聖典とするユダヤ教とキリスト教は、言葉の宗教といわれますが、イスラエル民族の歴史上の体験の中から生まれた宗教ともいえるのではないでしょうか。

したがって、もし旧約聖書に書かれている歴史的事実がひっくり返されたらこの宗教は成り立たないことになると思います。

もちろん、旧約聖書がひっくり返ったら新約聖書もひっくり返ります。イエス・キリストの出現は旧約聖書によって預言されており、その意味づけは旧約聖書によりなされているのですからです。

歴史の中の出来事はすべて移り変わります。

しかし神が預言者を通して、イスラエルの民に発せられる言葉は、変わらないものであるということを、イスラエル民族は長年の神の民としての体験の中で体得して確信しました。

その典型的な表現が旧約聖書イザヤ書四〇章の言葉だといえます。

「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。

永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(旧約聖書イザヤ書四〇章六~八節)

人間がここで、朝には萌出るけれども、夕べには枯れ果ててしまうはかない草や花にたとえられて、人間もそのようなものに過ぎないと言っています。

人間は神の言葉(歴史上の出来事に裏付けられた)に出会うことによって、この世の中で変わらないもの、時の流れによって変化しない確かなものがあることを体験します。

言葉によって、万物を創造した神は、創造に続く歴史に於いても、出来事を通して語りかけ、その語り掛けによって創造時の秩序を維持し、さらにつぎのステップに進もうとされています。

旧約聖書の時代と新約聖書の時代の神の語りかけ、あるいは関与の仕方は違いますが、いまもその秩序維持の働き、さらに新約聖書によると新しい創造の働きは続けられていると思います。

いまは、その新しい働きかけを受け取っているのがイスラエル民族に変わりキリストを信じる民であると思います。神はキリストの民を通して全人類に語りかけておられると思うのです。

ヘブライ人への手紙第1章1節「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」、とあります。今はその終わりの時代なのです。

旧約聖書をみていますと、その語りかけ方は、神はその業(人間社会への関与)をなされるにあたって、それが神からの関与、出来事であるということを示すために、神ご自身が事前にまずそれを預言の形で言葉として語っておかれます。

預言者を通して、あるいは特定の選ばれた人に対して、それを明確な言葉で語られます。それが広い意味の約束となり、歴史上の伝承として語り継がれていきます。

神が語り掛けられたと思われるころから相当年数がたち、状況がすっかり変わってしまって、みながあきらめるころになって突然、驚くべき方法で神が語られたことが実現する。

旧約聖書を読んでいるとイスラエルの歴史はそのことの繰り返しなのですね。

これを、具体的に書きますと、わたしたちは雨上がりに美しい虹を見ます。これは昔の人も同じように見ました。

ところがイスラエルの民はこの虹を見たときに、あの美しい虹は神の約束のしるしだと受け止めるのです。それはなぜかといいますと、

ご存じのように、神は人間の悪を憤ってノアの時代に裁かれました。大水と大雨を送って、地上の生き物をすべて絶やされたのです。

そのときに神の前に正しく歩んだノアとその一族、および神が指定された動物だけが箱船の中に入れられて救われました。これは紀元前2370年ころの出来事といわれているノアの箱舟の物語です。

水が引いた後でノアが神を礼拝した時、神は空に虹を見せて、約束の言葉を与えられました。「わたしはもう二度と大水によって地上の生き物を滅ぼすことはしない」と。

だからイスラエルの民にとっては、今人間が水によって覆い尽くされずに、乾いた土地に生きていられるのは、神の約束が実現しているからだと自覚しました。

そのしるしとして雨の後には虹が出るのであって、これは神の約束が確かであることのしるしだと理解しました。

このように神の言葉に出会った人間は、虹を見てもそこに神の約束の言葉を見ることができました。神を知らない人達は、不思議な出来事を見ても、何も感じないか、たんなる偶然と見るかですが、神の存在を信じる人はそこに神を観るのです。

人間は誰でも死ぬことは嫌です。しかしイエスは、十字架の死が神の御心によって定められた自分の道であるから、それを受け入れられたのです。何の罪もない方が何一つ弁解もせず受け入れられたのです。

なぜなら、イエスは自分の出現はすべて旧約聖書で預言されていることで、その預言を成就させるために自分が来たことを自覚しておられたからだと思います。それが神の約束の言葉なのです。

また、死人の中から復活するというようなことは誰もまだ経験したことがありません。

けれども、イエスは、そのことが旧約聖書に記されているから、自分の身にそれが起こらざるを得ないのだと受け止めておられたと思います。神の言葉は必ず実現しますから、避けることができないのです。

イエスは十字架にかけられる前に、弟子たちに、人々に捨てられ、苦しみを受けて死ななければならないこと、そして三日目に復活するということを語っておられました。

これは旧約聖書の歴史の中で確証されてきた預言(神の言葉)であり、イエスは、ご自身がそれを成就する者としてこの地上に来たことをしっかりと自覚しておられました。

イエスが現実に十字架にかかり、そして三日目に復活されたとき、その出来事はまさに預言者を通して、イスラエルの民とイスラエルの民を通して人類に語られていた神の約束、つまり人類を罪の中から救済する約束が成就したのです。

そのことと、そのことの意味を述べ伝えているのがキリスト教です。

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