宗教心とキリスト信仰(2)
前回では罪の根源と救いの道は唯一であることをとりあげましたが、今回は救いの方法としての、イエスの十字架の死と信仰について書きます。
人間は絶対者である神から離反し反抗するから両者の間には断絶があり、対立があるといえます。
そのためその断絶を埋め、対立を無くそうとしてこの地上世界にこられたのがイエスです。イエスは、両者の間に立って、人間を憐れむがゆえに苦悩しなければならない。それがイエスの十字架上での死だと思います。
その死に至るまでの苦難と悲惨は、人間との断絶の溝が深ければ深いほど強烈なものとなります。事実その苦しみは想像を絶するものでありました。
ゲッセマネでのイエスの祈りがそれを示しています。(マルコによる福音書第14章32節以降)
それまで、イエスのもとに慕い集まっていた多くの人々はいつしか遠ざかり、人々はイエスに侮辱と嘲笑を投げかけました。
信頼を寄せた弟子達ですら逃げさり、ペトロのようにある者は彼を三度も否認し、さらにユダのようにイエスを敵の手にお金で売り渡す者さえでました。
イエスに惹かれて従ってきた女たちでさえ、イエスの極刑を遠くから見ているだけでありました。これは、人間の真の姿を現しているのではないでしょうか。
アダム以来神から離反し、自分が造られた存在であることも知らずに、自分が一番、自分には何でもできるという自己愛そのものの姿であると思います。サタンは人間の自己愛を利用し、人間を罪へとそそのかします。
他方神の方は、御子イエスをこの世に送り、人間にその罪を自覚し、神のもとに帰るように説きました。
両者の仲を取り持つためにこの世に来られたイエスは引き裂かれます。余りにも、両者の断絶が深かったために、人間を愛する愛の深さゆえに、イエスは、極度の苦悩に陥ることになります。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(新約聖書マイイによる福音書第27章46節)、というイエスの最後の叫びは、人間の背信と嘲笑と残虐な仕打ちの中での苦悩の叫びであったと思います。
人間の罪を一身に背負った、人間としてのイエスの断末魔の叫びと言えます。
それでもイエスは、十字架は神の御計画であることを自覚しておられて、人間を愛するがゆえに、甘んじて受けられたのです。
イエスは地上の人間に父なる神の言葉を語り、その深い罪を自覚し、悔い改めて神のもとに帰るように説きましたが、人間はその神の声に素直に聴き従うほど従順ではなかったのです。
イエスの十字架上の死は、人間の罪を贖うための贖罪の死であったという。
イエスは地上の人間のもとに遣わされた神の子であって、神は、この罪なき神の子イエスの受難と死を通して、人間の力では償うことの出来ない罪を自らに背負い人間の罪を贖いこれを恩恵のゆえに赦された。
このように対立する者を赦すのが神の愛であるといえます。逆にいえば、人間は罪なる存在であるがゆえに愛すべき存在だといえます。できの悪い子ほどかわいいとも言いますが。
「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んで下さったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(新約聖書ローマの信徒への手紙第4章8節)
われわれの信仰そのものが神の愛の働きであり神からの恩寵であるということです。
自由意志を持つ人間には、信仰は一つの選択ですが、われわれが選ぶ前に我々は神に選ばれている。
神の愛の働きは啓示として現れ、言葉として表れ、言葉の受肉としてのイエスとして現れたのです。それは神の恩恵であり、神の行為であります。
このような神の業があって初めて人々は信仰に入ることができる。
信仰は人間から神に向かう働きでありますが、それ自身神から人間に向かう神の働きによって可能になるといえるのではないでしょうか。(ローマ8-20)。
イエス・キリストの復活の信仰には、永遠の生命への信仰があります。
われわれは、イエスが、人間の罪を贖う(死は罪と結び付けられているから)為に十字架に架けられ死に、死から復活したということを信じることによって、罪は赦され、われわれも来世において復活して永遠の生を得ることができる。
ここに来世への希望が生まれます。そのための準備がキリスト者においてもうすでに始まっているといえます。これにより人間は罪に死に、愛に生きる、自己に死に神に生きることになります。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。
このことを信じるか。」(新約聖書ヨハネによる福音書第11章25節・26節)
「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(新約聖書ヨハネによる福音書第12章24節)。
世界宗教となったいまのキリスト教を見ると、まさにこの御言葉が成就したことになります。考えれば考えるほどこの聖句は、すごい言葉だといえます。人間には言えません。
もし、創造主がいないのなら、もし、イエスの救いの十字架がなければ、この地獄のような世界から人間をどのようにして救い上げればよいのでしょうか。
戦争、殺戮、破壊、そして、貧困。人間の生を見れば、不幸と悲惨、孤独と不安に支配されています。死にも、苦にも、その他この世の多くの問題に対して人間は無力であります。
この地獄のような世界を造り出した人間には、地獄をなくすることはできません。神はいない、だから裁きもない、自分だけ良ければよい、救いようのない世界、強い者勝ちの弱肉強食の支配する世界がここにあります。
その世界に輝く、希望の光がキリスト信仰ではないでしょうか。最後に、ナルニア物語の作者C・Sルイスの言葉を紹介します。
<神が人間になった理由>
もし、神(人に善いものを分かち合うことができても、死ぬことも降伏することも苦しむこともできない)が人間になったとしたら、苦しみそして死ぬことのできるわれわれ人間の性と神の本性とが、ひとりの人格の内に融合したら、その人格はわたしたちを助けることができる。
彼は人間であるゆえに自己の意志を放棄し、苦しみ、また死ぬことができる。しかも、神であるが故に、それを完全になし遂げることができる。
<十字架は神にとって苦しみか>
イエスが神であり人間であるならば彼の苦しみや死はどれほどの値打ちがあるのか、彼にとってはそんなものはいとも簡単なことだから。
イエスは神であったが故に完全な服従、完全な苦難、完全な死は彼にとって容易であったというだけでなく彼は神であったからこそそれらのものが可能となったのである。
神が死ななければわれわれは神の死にあずかることが出来ない。神は人間にならなければ死ぬことが出来ない。
このような意味で、神は我々の負債を払いご自身は全然苦しむ必要のない苦しみをわれわれのために苦しんでくださった。
神は十字架にかかることは易しい。易しいから人間を助けてやることもできる。
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