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2009年11月 4日 (水)

宗教心とキリスト信仰(1)

人間は、常に何かを求めているから、それが得られないきに、色々な感情が生まれるのではないでしょうか。
何かを求めることから生まれる感情の中には、恨みや憎しみやはては欲望から来る闘争心もあります。

それらの原因は、他人との比較からうまれる嫉妬ではないでしょうか、嫉妬は、自己中心から来ていると思います。これがキリスト教でいう人間が本性としてもつ罪だと思います。

死、苦、不幸、悲惨、孤独と不安その他この世の多くの問題に対して人間は無力で、生きている限りそれらを避けることは出来ません。


そのことを真に自覚したとき、人間は自分自身の無力さと生きることに意味を見いだせなくなるのではないかと思うのです。

人間は自分の無力さを知ったとき、満たされぬ気持ちと不安に襲われる。そして、何かにすがりたくなり、その対象として人間を超える絶対者である神を求めるようになるのではなかろうか。

人間は絶対者としての神を見出し、その神に自己を投げ出し、もちろん、自己を投げ出すには自我を捨てる必要がありますが、

すべてを委ねることができれば、その神に自己の存在と意味を見出し、無意味と思えた自己を意味あるものにでき、心の平安を得ることができるのではなかろうか。宗教心というのはそのようなものだと思います。

このようなことを考えるのは、おそらく人間だけではないだろうか。そこに人間が存在する意味というか、人間を造った創造主の意思を感じることが出来ます。

このように、人間に神を希求する心が与えられているのは、人間が神によって造られた存在だからだと思います。

困った時に、子が親を求めるように、造られたものは造ったものを希求する。神は人間を創造するときに親が子に求めるように、いつも自分のほうを向いていてほしい、道を間違わないでほしい、あるいは何か創造の目的を成就するために人間に神を希求する心を与えられたと思うのです。

造られたものの住む世界は有限、創造主の無限の世界のことはわかりません。だから人間はどこから来てどこへ行くのか、生きている意味は何か、分からないから、知ることが限られているので心の底では常に不安を持っています。

絶対者に依拠する心、それが宗教心を生む意味だとすれば、絶対者である創造主の意思を、信仰をもって真に理解し信頼できたとき、はじめてわれわれの心は親の胸元で赤子が安らかな顔をして寝ているように平安に包まれると思うのです。

自己の生死とか存在の意味は知らなくても生きてはいけますが、それでは動物と変わらないと思います。

目も見えず耳も聞こえずただ自己愛という本能的な衝動によって動かされて、ひたすら己の欲するところを追及して生きているだけの存在になると思います。

もちろん、知恵とか良心が与えられていますが、現世では、努力だけではとうてい自我を完全にコントロールできるものではありません。

動物の世界には、いわゆる悪は存在しないと思います。動物が共有している本能、つまり自然な衝動と欲望だけではまだいかなる悪も生じないが、これに人間の自我が入ると我意が生じ自己愛が生じる。

それがこの世のあらゆる悪を生み出し、人生の苦を生み出すのだと思います。

このような罪なる無意識な衝動が、自己の内に巣くっていることを見出し、その罪に対する無力を知るとき、われわれは自己の力ではどうしょうもない罪悪感を覚えるのではないだろうか。

これを使徒パウロは次のように表現しています。

「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(新約聖書ローマの信徒への手紙第7章19節・20節)。

罪を知るのには、聖書には神の霊、聖霊の働きだと書いてあります。神がいなければ、つまり、進化論で言う、人間が偶然の産物なら、罪悪感も覚えることはないので、自己の思うままに生きればいいだけである。

人生はこの世だけだから、やりたいことをやって死ねばすべてが無。この世の不条理、不公平も関係ない。やったことに対する報いもないから罪とか裁きを気にすることもない。

もし、進化論が正しくても進化の過程に秩序があるなら、やはり創造主の存在をわたしは認めたいと思います。

創造主である神の存在を認めるとき、人は自己の心の奥底に潜む、自己の力ではどうしょうもない罪なる自己の存在に気がつくことがあります。そのときに猛烈な悔い改めに導かれます。

そして、そこから救われたいと思い、創造主である神に許しを求めるようになると思うのです。

自分ではどうしょうもない罪悪からの救いは、自己を創造した神の前に悔い改めるしかないと思います。イエスを信じる信仰も、深い罪の自覚と、人間の無力の自覚から出てきたものといえるのではないだろうか。

人間が、どんなに善行を積み、戒めを守り、律法を守る努力をしてもこの罪なる意識は克服できません。

なぜなら、人間には、自分は造られて生かされているという自覚がない。当然自己を創造した神から離反しているという自覚もない。

だから、造られた目的も分からないから、造られた目的にそって生きていないことになる。神の霊、聖霊も受信機が壊れているそのような人間に働きかけても交流は不可能。

人間は本来歩くべき道を外しているがために常に重荷を背負って生きていかねばならないことになる。

聖書には、人間の神からの離反は人間の自己愛と傲慢から起きていることになっている。

その原因は、人間に自由意志が備わっているからだということです。神は人間に必要があって、人間にとって善きことと思って自由意志を与えられましたが、人間は自由意志を神からの離反という悪いほうに使ってしまいました。

神は人間を創造しておいて、たとえ人間が自分から離反しても、放置して単に人間の世界を超越したところに絶対者として君臨しているだけなら、愛の神ではないと思います。

罪の中で苦しんでいる人間がいるからこそ、神は人間を愛するので、それゆえに人間世界に神の子を使わしました。聖書では、これを義なる神と言います。

この様にして、人類を救うために神の子イエスはこの世にこられました。イエスの第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書第1称5節)、であります。

そして、イエスは、財産とか、地位とか、名誉とか誇るべき何ものも持たない者に、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなた方のものである。」(新約聖書ルカによる福音書第6章20節)といわれました。

神は、御子イエスをもってこうして人間に救いの道を開かれました。神は唯一であるから救いの道も唯一であります。

神は万人を愛するがゆえに、イエスの十字架上の死で過去・現在・未来のすべての人間の罪を贖われましたが、その恩恵を受ける唯一の条件として、イエスの御言葉を信じること。

だから救いの道はイエスただ一人だといわれました。なぜイエスを信じることが条件かといいますと、イエスを信じた者に聖霊が宿り、受信機は補修され、神との交流が可能となるからです。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。」(ヨハネによる福音書第14章6節)。

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