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2009年10月 8日 (木)

わたしは造られた

わたしは生かされている。もし、そのことを本当に心の底から思えたら、この世を生きるのは随分と楽になると思います。
そうでしょう、生かされているのなら、この世に、あるいは我が身に起こる出来事に幾らじたばたしてもどうしょうもない。

わたしは、自分が苦しいときは、どうしてよいかわからないときは、「神様は悪い様にはなさらない。忍耐をもって全てをゆだねよう。」と自分に言い聞かせています。
ただ、わたしを支えておられる、生かす力を持ておられるかたに全てをゆだねるしかない。


全てをゆだねてその方が作られた法則の中で、おかれた環境の中でその方の御心に忠実に生きるしかないと思うのです。

その通りにできるかどうかは、聖霊様の導きに委ねるしかないともうのです。つまり、他力本願です。

もちろん、法則の中で生きるといっても、人間が自分の意思で自由に生きることができる一定の範囲があると思います。

造り主が決められた通りに生きるだけなら、人間は動物になってしまい、意味目的のない、面白味もない人生になってしまうと思います。

動物とは違います。動物は自由意志を持たないで、自然本能的に生きているだけだと思います。

わたしたちは、自分のために太陽を 昇らせ雨を降らせることもできなければ、自分の寿命を延ばしたり縮めたりすることもできない存在です。

おそらく、この宇宙も神はひそかに支えてくださっていると思います。自分の努力 だけでは生きていくことが出来ないということです。

わたしはこの世は神様に造られたと思っています。そして神様が造られたこの世で、神様が造られた善いものをいただい て、人間を含めてあらゆる他の生き物とかかわり合いの中で生きるように生かされていると思うのです。

それがわたしたち人間が、この地球で平和に生きていくための唯一の方法だと思うのです。

使徒パウロが新約聖書フイリピの信徒への手紙第1章6節で 「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」と告白しています。

この手紙で使徒パウロは、キリスト・イエスは、自ら十字架にかかり人間の罪を贖って(人間の罪を十字架という対価を払って買い取ってくださったこと)下さり、死から復活され今新しい命に生きる人間を創造されている。

この業はキリスト・イエスが再び来られるまでに完成する、と信じていると言っています。

これはどういうことでしょうか。人を造られた神様は、人に必要なすべてのものを備え、また生きる力をくださって、わたしたちをその人生のはじめから終わりまで責任を持って導いてくださる方だということになりませんか。

この造り主なる神様こそ、イエス・キリストの父なる神なのです。

ユダヤ教の一派であるフアリサイ派の人々が、神の国(天国)はいつ来るのかとイエスに尋ねたら、イエスは「神の国は見える形では来ない。

『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなた方の間にあるのだ。」(新約聖書ルカによる福音書第17章21節)といわれました。

このように神の国(天国)は、死後に行くところであるのは間違いがないことだけど、もうすでにあなた方の間に到来していると言われたのです。

天国とは、この世に生きている間にイエスの言葉を信じて救われた結果もたらされる状態なのです。だからイエスを信じた者の間に天国はすでに到来しているということです。

なぜ、こういうことが言えるかと言いますと、死後のことばかり言っている人に対しイエスは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」(新約聖書マルコによる福音書第12章27節)と言われました。

神様が必要なのは今生きている人間に必要なので、死者に必要ではない。ということは、神様は今、生きているわたしたちを罪の中から救いあげるために、今、ここに生きているわたしたち自身、一人ひとりに働きかけておられるということだと思います。

これらはすべてイエスを通しての父なる神様の働きです。聖書には、イエスは御父の御心を行い、御父を示して下さるかたであると書いてあります。

神様が地上のイエスという肉体をもつ人となられたということ は、神様ご自身がご自分の存在を人間に対し、強烈な形で啓示されたとも言えるのではないでしょうか。

御子イエス・キリストの御名 は「インマヌエル」(神われらと共にいます)と呼ばれます。復活されたイエスは「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28章20 節)とも宣言されました。

この世界に生きるものすべては、主なる神に造られ、主なる神に支えられて存在しています。神様が今ここにおられ働かれているこの世界こそ、まさに神様の支配する国である以外の何ものでもないということです。

その支配は、キリストを信じる者の集まりにおいて実現しています。

この世は、未だサタンの影響下にありますが、その中に神様の支配する場があると言うことは、そのような状態が、すでに神の支配が既に到来していると言えるのではないでようか。

わたしたち人間は、神に 造られ生かされている存在であることを忘れ、自分ひとりの力で生きていると思っています。これは創造主である神様から見れば傲慢です。

罪とは、神様に造られ生かされているいのち、それに対する感謝と畏敬の心を失い、造り主・生かし主である神様ご自身と、やはり神様に造られ生かされている他のいのちとの交わりを断ってしまった状態といえないでしょうか。

イエスの十字架による死と死からの復活は、こ の罪と死の地獄しか知らないわたしたちの人生に、神自ら実際に介入して下さり、

人間に、自分は神様によって造られ生かされていることを教えて、その中に神様が造られた世界と命の尊厳を回復し、そして、生きとし生けるものの命の交わりを回復する道をひらき、神様は人間にその中に生きるように招いておられると思います。

神の国、天国とは死後に行くところでもありますが、その事態はイエスを信じる者の中にすでに到来している。その事態は、希望として次の世における復活と天国につながっているのです。

イエスはそのことをご自身の死からの復活をもって証されたということだと思います。造られたものは、己の立場をわきまえて、造られた目的に沿って生きるのが、最も幸せな状態と言えないでしょうか。

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