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2009年10月 2日 (金)

聖書をひとりで読む(3)

「聖書をひとりで読む」の最終回です。ここでは、聖書はどこの国にとっても外国からきたもので、すべて翻訳であるということです。そして、第二の聖書といわれる自然について書いて見ます。

聖書解釈は、読む人の置かれた環境とか、人生経験、持っている知識に応じて違うと思うのです。だから出てきた解釈の、どれが正しいともいえないと思います。

また、聖書は神の言葉と言われていますから、神は聖書の言葉を用いて、読んでいる人個人に語りかけられる、だから神の言葉を聞こうと思って読むのが正しい読み方だと思います。


聖書を読んでいて、わたしが注意したことが三つあります。一つは、そこに出てくる語句や用語の意味です。

二つ目は、そこで語られる出来事の時代背景と聖書著者がおかれた状況です。三つ目は、歴史の流れの中で捉えるということです。とくに先の二つが、聖書と現代の日本とでは、ずいぶん異なります。

専門家の話しでは、聖書は、優れた英語訳が幾つも出ていて、英語をある程度読める人なら、これらを参考にしながら日本語で聖書を読むのが、聖書の意味を取り違えることはないということですが、

同時に現在の日本には、聖書の語句事典、聖書神学事典、それに各巻の注解書・解説書などが日本語でそろっていますから、よほど専門的なことを調べるのでない限りは、日本語で書かれたもので十分間に合うということです。

時代背景についても同様で、事典とか聖書の注解書などで、聖書に出てくる事柄や出来事の背景をある程度理解することができると思います。

ネットでも聖書を研究されている先生が非常に詳しい注解書を投稿されています。わたしなど、それらを読んで、用語の意味とか時代背景は、そこに書かれてある事をそのまま受け取って満足しています。

一から自分で調べる能力も気力も時間もありませんから、先人の研究成果を参考にしています。

聖書の原本にしても、キリスト教は、本質的に、「翻訳の宗教」です。なにしろ原本は残っていないのですから。

もちろん、イエスが自ら書かれたものなどありません。これは、キリスト教が、いまだかつて一度も、ある特定の民族や国語や土地と特別の関係を持たなかったことを証ししています。

イスラエルは、聖書発祥地ですが宗教はユダヤ教です。

キリスト教は、どの国のどの民族にとっても、常に「外国から来た」外国語の宗教だということです。聖書とは、そういうものだということです。ひょっとしたら神様は理由があってそのようにされているのかもしれません。

だから、結論として安心して日本語で読んでかまわないということになると思います。

その聖書を教典とするキリスト教は、どこかの国の宗教ではなくて、全人類にあまねく宣教するために生まれた宗教なのです。キリスト教は、西欧とかアメリカの専売特許ではないのです。

ところで「第二の聖書」という言葉があるのをご存知ですか。

この言葉は、神がご自身を啓示されたのは、聖書を通じてであって、これ以外に神を知る方法は与えられていないと考える人たち向かって言われた言葉だということです。

神は、言葉としての聖書以外にも自然を通じて人の心に語り、神を人に啓示しておられます。いわば、自然は、神が人間にお与えになった第二の聖書であるという意味です。

この言葉は、私たちが聖書を読む場合の心構えをとてもよく言いあらわしていると思います。

なぜなら、第二の聖書を読むためには、人は、活字になった聖書だけではなく、自分の身の周りに広がる豊かな自然にも注意を向けなければならないからです。

活字の聖書と共に自然を読まなければならないということです。

神をよりよく知ろうと思うならば、活字の聖書から目を離して、自分の目と耳と心と知恵を働かせて自然からも神を学ぶことができるということです。

このように、聖書を通じて自然を読み自然を通じて聖書を読む、ということが行なわれて、初めて神の言葉がその人の内で生きて働く力を帯びるようになるというのが第二の聖書の意味だということです。

パウロはこのように言っています。

新約聖書ローマの信徒への手紙第1章20節「世界が造られたときから、目に
見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神聖は被造物(人間とか自然)の中に現われており、これを通して神を知ることができます。」と。

そう言う意味では、音も色彩も、身の周りの、一切の現象もわたしたちが読むことのできる聖書であるといえます。

例えば、人々は、空を見て天候を読みます。株をやっている人などは、絶えず世界の情勢に注意を払っています。実業家は経済情勢を見て会社の経営に注意を払います。

このように、自然だけではなく、社会情勢をも含めて、わたしたちは、実にさまざまな現象を読みとり、かつこれを解釈しなければなりません。

聖書を読むことは、わたしたちにかかわりのあるあらゆる目の前の現象を読む基礎を築くことなのです。聖書を信じる人は、判断に困った時に、聖書を開くと聞きます。

内村鑑三は「聖書しか読まない人は、聖書も読まない人だ」と言いました。自分の身の回りに現実に生じている出来事こそ、神の言葉の注解だという意味です。

神は、いわゆる言語としての言葉を通してだけでなく出来事を通して語られるからです。

人間の歴史、社会を含めて、この宇宙に生起する一切の現象を神はすべてご存知で、神の許しがなければ起こらないということです。

だからそれらのことがすべて神の言葉なのです。それが分かる時、わたしたちは、初めて聖書の言葉をほんとうに知ったと言えるのかもしれません。

なかなか理解が難しいと思います。わたしの目はまだそこまで開かれていません。でもそうありたいと思うのです。

この世界は、神が創造され支配されている、神の恵みにより成り立っているという大原則があるからです。

このことを本当の意味で開かれた心で受け止めることができたら、今までの、小説の中のイエスが、何か遠い存在でしかなかったイエスが、いまこの世界を共に生きる存在として受け止めることができるようになるのではないでしょうか。

物語の中のイエスなら、直接現実の人生とかかわってくることもないし、分からないこともそんなに気になりませんでした。

ところが、聖書を読んでいて、イエスの存在が、突然身近に感じられてきたとき、この時からイエスは、聖書を読む者にとって架空の人物ではなく、遠い過去の歴史上の人物でもなく、自分のかたわらにいてくださる実在感のある人物になっていくのでしょう。

イエスは今もなお生きておられる。しかも、自分と人格的なかかわりを持とうとされている存在であると知ること、これが、聖書がわたしたちに一番伝えたいと願っていることだと思います。

聖書は、どれほどの人がこれを読んで信じたのでしょうか。数えきれません。だまされたと思って読んでみたらいかがですか。究極の疑問である、自分はどこからきてどこへ行くのか、そして、存在意味は、それらが見つかれば幸いです。

キリスト信仰が人生の生涯をかけて育むものならば、生涯未完成であっても、生涯求道者であっても、きっと、神様は愛と恵みをもって救ってくださると信じています。

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