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2009年10月 1日 (木)

聖書をひとりで読む(2)

聖書を楽しみでとか教養の為に読むということは昔からありました。本来は、聖書を読みたいと思う人は、教会へ行って、そこで牧師さんの教えを聞くことを考えますが、教会というところは敷居が高くて一人ではなかなか行けません。

牧師さんに対する質問もしにくいものです。ただ聖書をある程度理解しょうと思えば、やはり何度か教会に通う必要があります。

強い求道意識のある方はよいのですが、聖書を読むのを楽しみとか趣味程度に考えている方はすこし抵抗があると思います。聖書に興味があっても、教会の敷居が高いという人は結構多いと思います。


近くに学ぶことの好きなクリスチャンの方がおられれば一番よいのですが、たとえそういう方がおられない場合でも、今の時代は恵まれていると思います。

教会へ行くのは嫌だけれども、聖書には興味はあるが内容がちょっと難しくて、と思われている方には、まさに恵まれた時代が来ている様に思います。

それは、情報化時代の到来です。情報の伝達方法が発達して、一人一人がだれからも妨げられずに、さまざまな情報を享受できる時代が来ているからです。

パソコンを開いてインターネットで索引すればたいがいの疑問は解決します。本やその他の情報を通じても、聖書に関する知識を手に入れることは簡単です。

といっても、イエスにある兄弟姉妹が交わる場としての教会、独りよがりの信仰から守る場としての教会の役割は薄れることはありませんので、適当な時期に教会に行ってみるのも良いかと思うのです。

教会はサロンだといった方がおられます。確かにそういうところがあります。教会は聖書を学ぶところでもありますが、イエス・キリストにある兄弟姉妹が愛し合い交わるところでもあるわけです。

だから、最初から聖書の学びのみを目指している方は失望されるかもしれません。聖書を深く学びたいと思われる方はそういう場が教会には別に設けられていますから、それに参加する必要があると思います。

そのためには何度か教会に通いなじむ必要があるでしょう。いったんなじんでしまえば、信徒にはさまざまな社会経験とか信仰経験を持った方がおられますから勉強になると思います。一般社会では学べない貴重な経験です。

教会へ行っても、ただ忘れてはいけないのは、信仰は神様と自分の関係だということです。あの人がクリスチャンだから間違いないだろう、そういう目で人を見れば必ずつまずきます。

兄弟姉妹とどんなに親しく交わっても信仰は神様と自分の人格の関係です。クリスチャンでも人間、いろんな人がいます。

ひとりで聖書を読むと、聖書と自分をどのように関係づければよいのかが、なかなか見えてこないのです。そのために私も随分時間を要しました。

聖書に書かれていることは難解です。なぜこのように難解なのでしょうね。わたしも不思議に思いました。イエスは全世界にいって福音を述べ伝えよ、といわれているのです。

ならば誰でもが簡単に理解できるものであればと思うのですが。それがそうではないのです。でもわかる時は一瞬なのですよ。不思議ですね。

わたしは、聖書が難解であるのも意味があると思うのです。必要があって、そのようになっていると思うのです。

それは、イエスの御言葉「聞く耳あるものは聞きなさい」ということではないでしょうか。聞く耳をもつ者にしか理解できないということです。

それは、聞く耳ある者にしか聖霊が働かれないということでしょうか。

聞く耳があるということは、聖書を読む者がそこに何かを期待して読むということです。そのような気持ちで読めば、不思議に聖書はその期待に応えてくれるのです。

ところで、こういう個人的な聖書の読み方をする場合には、何しろ書かれたのが2000年前ですから、情報不足、知識不足のため解釈方法がわからない場合や、見当違いの解釈が入り込むのは避けられません。

こんな時、どのように解釈すればよいのか、はたして、自分の読みはこれでいいのだろうかという疑問や不安につきまとわれると思うのです。読み進めると、分からないことばかりでてきます。

そこで、街の本屋さんやキリスト教関係の書籍の専門店へ行って、いろいろな本を買ってきて読むのですが、これがまた難しいか、面白くないか、要するにあまり役に立たないのです。中途半端なものが多いように思います。

わたしも色々な本を読みましたが、キリスト教を信じるについての一般論については、C・Sルイスの「キリスト教の精髄」という本が一番分かりやすかったと思います。

聖書を読みながら、自分はこの箇所をこう解釈したいと思うのだが、はたしてそれでいいのだろうか、という疑問を抱きます。

そこで、手に入る注解書に当たってみます。ところが、注解書にはこの聖書のこの箇所は文献批判的にはこうであるとかああであるとか、ここはテキストの成立上疑問があるとか、

まるで神学の専門家でなければとうてい正しく理解できないようなことが書かれているのです。読む者を混乱させます。

そうでなければ、読者が自分で判断する隙間もゆとりもないほどに厳密な「釈義」が述べられていて、読む者が疑問をはさむ余地のないものまであります。そうするともう思考は停止してしまって、それ以上進みません。

聖書を読もうとする時は、何かを求めて、期待して読み始めたのに、こういう状況に追い込まれる人がわたしを含めてけっこうおられると思います。これはクリスチャンでも一緒です。

教会に行っておられない学生や家庭の主婦や企業で働く人とか畑違いの学問的な分野の人たちなど、だれでもが入りやすい注解書や参考書はないのでしょうか。

読む人の不必要な誤解や誤謬を避けることができて、しかも読者に柔軟な読み方を教えてくれる入門書といいますか、解説書はないのでしょうかね。

聖書は解釈が多様です。ましてや現実の出来事に照らせて解釈しょうと思えばなおさらです。自分流で聖書を読む人たちは、私のように時間をかけて手探り状態を続けるほかはないのでしょうか。

けれども、人生を考えているとか、何か悩みをもっている人は、ぜひ聖書を読んでほしいのです。

読んでみれば、けっこう面白いのですから。面白いから読み始める。そういうところから、一歩一歩と自分なりの読みを深めていけばいいと思うのです。

分からないから面白くないという人は、少しずつ忍耐を持って読んでいれば面白くなります。聖書は期待を裏切らないと思います。

聖書がある程度理解できたら、世間の出来事を見る目が変わってくると思うのです。世界情勢とか、人類の歴史を見る目も変わってくるでしょう。

そして、わたしたちの最大の問題、つまり、今の時代に、間違いなく存在する私という個人が、日本国の中のこの地で、妻、両親、職場、知人、友人に囲まれて、この人類の歴史の中の今の時代に生きているということはどのような意味を持つのかという問いの答えも見つかるかもしれません。

自分という人間の存在意義を見つける旅といえるのではないでしょうか。

聖書は、一冊の書物、神の言葉であるにしても、やはり「書かれた文字」としての読み物です。この読み物は時代が変わって基本的には変わりません。その内容は、まさに人類の、この宇宙のすべて存在意義が書かれた書物です。

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