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2009年9月10日 (木)

この世とあの世の人生観(2)

宗教というのは、本来は神および死後の生命の本質を理知的に理解するものだと思います。盲信は執着です。真理は聖霊の働きに裏打ちされた知識を持って理解するものだと思います。

ということは、イエスが云っておられる「真理を知りなさい。真理こそ魂を自由にします」というのは、知識をもって真理を知る。知識は魂を自由にする、と云うことになります。

無知が盲信を生み執着を生むといえます。

この世に執着をもったままあの世に行けば、新しい環境への対応が難しいのではなかろうか。あの世に行く時にはこの世のことから卒業していくべきだと思います。

そうでしょう、いつまでも小学生活にこだわっていれば、中学生活に適応できなくなると思いませんか。執着する姿は、自殺者、狂信者、拝金主義の中にも見られます。

イエスが偶像礼拝を禁じられた真意はそこにあるのではないでしょうか。

我々の心というものは、我々が大切にしているもののところにあるといえます。

自己中心、無知、自己憐憫、嫉妬、お金、我欲はこの世に執着する原因となるからそれを聖霊の力を借りて克服しなければいけない。

そうしてそれらの執着を克服できれば自分の中に天国がくるということだと思います。だからイエスは自己中心を誡められました。

聖霊の力を借りるためには、己のすべてを神に委ねることが必要かと思います。

自分の力では人間、自己中心から抜け出すことができませんから、神は聖霊という大きな助け主をこの世に送られています。

聖霊の力を借りて克服できたらあの世にもスムーズに移行できるし、移行した後も新たな世界であるあの世になじむことにも抵抗はなくなると思うのです。

誰が言ったかは知りませんが、この様なことを書いた本がありました。

「死は罪多き人間を聖人にするのでもなければ愚か者を賢人にするものでもない。

その個性は生前と同じであり、地上時代と同じ欲望、習慣、信条、間違った教義、利己主義、来世に関する無知や不信といったものをそのまま携えて霊界に入る。」。

イエスは、我々に、「第一に神を愛しなさい。第二に、隣人を自分を愛するように愛しなさい」という命令を残されました。

これはあの世を送るためにこの世で培っておくべきもっとも重要なことであるからだと思います。命令ですから否応なく守りなさいということです。

第一の掟、神を愛しなさいということは、霊としての神の存在を、神があなたの創造主であることを知り、その神を愛し御心に従って生きなさい。

そして、次の世界があることを悟りなさい。それは真理ですということだと思います。

第二の掟は、この世での生き方を教えておられて、他人のために役立つことをしたその行為が次ぎの世で役立つことを示しておられると思います。

イエスはこの他に、取り越し苦労を誡められました。

ということは、取り越し苦労をすると心が不安になり悪霊らに影響されやすく、悪霊らが住み着きやすくなります。

そういうときは、神が愛であることを、神がこの世を支配されていることを信じて、その神にすべてを委ねて不安を追い払う。

くれぐれも、邪心や悪感情を心に宿さないようにすべきだということではないでしょうか。心と身体の健康な人には悪霊は寄り付きません。

この世を生きるにつき、たった一人の人間とか家族に執着しすぎるのも良くないと思います。子供への愛も執着しすぎると子供は自立できなくなります。

それと同じで、わたしたちもこの世に執着しすぎるとあの世に適応できなくなると思うのです。

わたしの天国観とか地獄観ですが。わたしは天国とか地獄というのは、特定の場所ではなくて、その人の霊的真理の理解を通して得た心というか魂の状態だと思うのです。

たとえば幸せに思う心とか愛する心の状態は天国だと思うし、逆に嫉妬とか自己中心とか利己主義とか無知からくる心の状態は地獄だと思います。

あの世では霊的に同じような性質の人が集まると思うのです。

したがって地獄は、邪悪な性質の人間が集まっていて、神の霊の光が届かないところだと思いますから、その様相は恐ろしいものだと思います。

だけど同じような性質の者が集まっていれば、そこにいる者にとっては一番落ち着くところではないでしょうか。

聖書に書いてある永遠の火あぶりなどは、実際には火が燃えているわけではないと思います。

それは喩えで書かれていると思うし、当時、つまり2000年前のまだ未熟で無知な人間に説明するのに必要であったからそのような表現になったと思うのです。

神は人間のいまの様相はすべてご存知です。

人間が罪の為に永遠の地獄に陥るというのもわたしには理解できません。

もしそうなら、神はこの宇宙をこしらえた時に間違いをなさったことになる。

神は全知全能で、宇宙や人間をこしらえたほどの神が人間を罪に落とすような過ちを犯すはずがないと思うのです。もしそうだとしたら、神は全知でないことになる。神は人間を地獄に落とすために創造しないと思うのです。

創世記で、人間を創造した後神は言われました「見よ、それは極めて良かった。」と言われたのですから。

キリスト教は、神から離反することを罪だと教えます。

これはおそらく創造主を、創造された目的を知らないままこの世を去りあの世に行くと、おそらくあの世での生活に影響を及ぼすからではないでしょうか。

それは神の1人子イエスをこの世に送って十字架にかけなければならないほど重大なことだといえます。

といってもわたしはイエスを知らなくて死ねばイコール永遠の死とか地獄に行くとは考えていません。

神はどこまでも愛ですから。神はわれわれをどこまでも愛してくださると思うのです。過去、現在、未来の全人類は神の愛する被造物に変わりはありません。

人間は決して神の失敗作でないと思います。いまの世界の状態、戦争、殺戮、飢餓などが渦巻く現状も神はすべてご存知です。

かならずやすべてを益にしてくださると信じたい。聖書を真に理解すればそのことが分かると思っています。

人間の本質は零体と考えて、あの世があるとしたら、肉体をまとったこの世は人間に取ってあの世に行くための準備の場所と捉えるのが自然だと思います。

とするとこの世でなすべきこと、体験するすべてのことが、あの世を生きるために非常に大切なことだということになると思います。

あの世が在るからこの世を生きる意義があると思うのです。

死ぬということは、まとっている肉体を脱ぎ捨てて霊の身体になること。

だからあの世ではもう病は無い。病は肉体の故障だから。結婚も無い、もう生殖活動をする必要が無いから。

こうして考えると、本当の意味で生きるというのは、死んでから始まるのではなかろうか。

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