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2009年9月 2日 (水)

キリスト信仰雑感

洗礼を受けて随分長くなるのに、一信仰者としての自分の居場所といいますか生き方がわからない、このような気持ちを抱いておられるクリスチャンはわたくしだけでしょうか。

わたしは信仰も幼年時代があり青春時代があり壮年時代があり、そして、本物の信仰に芽生えていくという過程があると思うのです。

わたしはキリスト教を信じようと決心し、青春時代が終わるまで約10年を要しました。今ようやく自分の信仰をもとめて再出発したというところです。


現在この国で、クリスチャンと呼ばれる人 は、全体の1%にも満たないと聞きます。その中で、毎週礼拝のために教会に行っている人はさらに少ないということです。

イエスを信じ洗礼を受ける決心の裏には、なにかその人にとってその人の人生を変えるほどのイエス(具体的には聖書の言葉との出会いを指すと思います。)との出会いがあるのが通常です。

信仰をもつまでに何十年という年月を要したという方もおられます。イエスの言葉を信じると言うことは、人生そのものの生き方を変えるというか、生き方を決めると言うことだと思います。

一度イエスと出会えば、もう離れられない。一時離れることがあってもまた戻ってくる。イエスとの出会いとはそういうものだと思っています。

イエスとの出会いは人生のあるとき、一回限りのものではなく人生という長い生涯をかけた出会いだと思います。

信仰生活というものは、そういう意味で山あり谷あり少しずつ信仰を深めていくといいますか、成長していくものだと思っています。

日本において神とは、どこか遠い星空の彼方におられるとか、触れてはいけない神秘な存在を指すと思いますが、聖書の神はわたしたちに宿り共に生きておられるのです。

助け導いてくださる神なのです。キリスト信仰はあくまでイエスとわたくし個人との人格の関係なのです。その関係は、愛と自由の関係です。

長丁場だから、クリスチャンとしての自分の居場所が分からなくなる時もあるのです。

みんなと一緒に教会活動だけで疑問も抱かずの信仰生活を送ることができれば何の問題もないのですが、わたしはわたしの信仰といいますか信仰者としてのあり方を探していまだにさまよっています。

もちろん、イエスの言葉は信じているのですが、聖書が余りに多様なので自分なりの信じ方があってもおかしくはないと思うのです。

みんなと一緒でなくてもよいと思うのです。イエスは、わたしに合った信仰を求めておられると思うのです。

聖書を読んでいてときどき思うのですが、ほかのクリスチャンはみんなこの聖書の内容を理性的に考えて本当にわかっているのだろうかと。

このようなことを書けば、聖書の内容を全部知る必要はない、分からないところはそのままにしておけばよい、それが信じるということではないのですか、と言って怒られそうですが、

わからないところは信じるしかないのはわかっていますが、納得するまでこだわりたい、中途半端な状態で信じるという一言で思考停止だけはしたくないのです。

わたしは自分の居場所を見つけて社会人生活を送ってきました。いまは信仰の世界で自分の居場所を求めてさまよっています。

このようなことを書くと苦しそうに見えますが、結構今の状態を楽しんでいます。

キリスト教が生まれた当時は、キリスト教のことを「道」と言っていたそうです。キリスト教は道なのです。こういったほうが日本人には分かりやすいと思います。

クリスチャンは自分の信仰体験を持ってイエスの証人になるのが最大の仕事だと思います。

教会生活で、奉仕も、献金も大切ですが何よりも大切なのは、キリストの証人になることだと思います。そのためには、誰の信仰でもない自分の信仰をしっかり持つ必要があると思うのです。

教団とか教会につながっていても、自分自身の信仰の有り様をじっくりと見つめ自分自身の霊的な成長を心から祈り求める。わたしはそういう信仰者でありたいと思っています。

イエスは、決してわたしを十把一絡げに皆のうちの一人として扱ってはおられないと思います。イエスは、人格の存在です。

人格の神様は、わたしという一人の人格に愛と自由をもって語りかけてくださる。これが、聖書の神の特徴だと思います。

だからそういうことが嫌いな人、自分をみんなの中の一人ではなく、自分の言動に責任を持った自立したひとりの人間として扱われることが苦手な人は、聖書の神を敬遠されるかもしれません。

日本人は、仏教とか神道ならなぜか安心する。キリスト教なら不思議な目で見られる。

皆と一緒ということにやすらぎを求めているなら、そういう人には、こういう言い方はおかしいかもしれませんが、キリスト教は向いていないと思います。

わたしがイエスを信じるということは、霊的に「新しく生まれる」と言うことになるのです。

だから、イエスを信じることは、「わたし」という新しい個人の誕生という理屈です。これはほんとうです。

だからキリスト教を信じるというのは、他人は関係なくて自分個人のことなのです。みんなが信じるから信じるのではないのです。

誰も信じなくても自分だけでもイエスを信じる、そうすると、そのようなわたしを周囲の人ははたしてどう思うだろうか。

そのようなことを考えていたらキリスト教は信じられません。キリスト教はあくまでも誰かが信じているから信じるのではなしに、自分個人がイエスと出会って信じる、

あくまでもイエスとの個人的な出会いにより信じることが大切だと思うのです。その出会いの方法は聖書を読むことです。み言葉を聞くことです。それがすべてです。

日本人はそういうことは苦手です。集団でいると安心する、みんなと一緒であれば安心する。

幼稚園の運動会では皆と一緒に手をつないでゴールすれば誰からも文句が出ない。これおかしいと思いませんか。

クリスチャンの数が日本人口の1パーセントにも満たないのはそういう没個性の教育をしているからではと思うことがあります。

キリスト教は先祖を粗末にすると聞くことがありますが、それは違うと思います。確かに聖書は、いま生きている人間を大切にします。

なぜなら、罪から救われるためには、いま生きているわたしがどのように生きるかが問われるからです。それは先祖を粗末にするのとは違います。

先祖を大事にし、これを尊敬することと、今の病が先祖のたたりから来るとか言って先祖に縛られることとは違うと思います。

それはなにも先祖を大切にしていることではないと思います。

だから、ガラテヤ人への手紙5章で、パウロは、先祖からの束縛から自由になりなさいと言っているのだと思います。
それでは先祖の救いはどうなるのかって?先祖の救いは、イエス様にお任せすればよいと思います。

イエスは、過去・現在・未来に生きている、あるいは生きていた人達全部を支配されている「主」であり、裁き主であるからです。

ローマ人への手紙14章に「死んだ人にも生きている 人にも主となられた」とあるのは、このことだと思います。

最後に、キリスト信仰について色々と書いていますが、わたしが最も驚いていることは、イエスの宣教活動は、つまり、公生涯は約三年と言われていますが、そのたった三年間で語られた教えとなされたことがその後の約2000年の人類の歴史にどれほどの影響を及ぼしたか。

これは誰が考えてもただ事ではないと思うのですがいかがでしょうか。

わたしは、その中に何らかのとてつもない真理が隠されていると思えてなりません。

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コメント

はじめまして。

迷っていて、いいんだと思いますよ。

無理に結論づけるよりは、
ゆっくりやってください。


これからも。

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