この世とあの世の人生観(3)
この世は、小学校のように、生命の基本である自分とは何か、何のために存在しているかを学ぶところといえないだろうか。
神は霊であり愛であり生命であり光であり目に見えない知的存在であります。神は宇宙のあらゆる驚異的、神秘的現象の中に顕現されています。宇宙の森羅万象の中にも神を見出すことができるということです。
もちろん、我々の魂の中に、花の中に、動物の中にも神を見出すことができると思います。本来被造物は創造主を知るようにできているはずだと思います。
人間は余りにも長いこと創造主である神から離反していたので、何が真理か分からなくなり、自分の力では神を知ることができなくなったのだと思います。
そのために、イエスがこの世にこられ、聖霊が人間を真理に導くように働かれているのだと思います。
自分がそのような神の被造物であると分かれば、神は被造物である人間にとって、圧倒的な存在ですから、自然に神を崇めるようになるのは当たり前であるといえます。
神道で、神秘を恐れ拝するのもそのことの表れだと思います。
わたしは、創造神がいるなら唯一であると思うし、多数の神々が思い思いに宇宙の一部を分け合って創造しているなんて考えられません。
おそらく多神論という考え方は、その森羅万象の一つ一つを捉えて見ているから生まれるのではないでしょうか。
この宇宙が統一した節理で保たれているなら、その背後には唯一の創造主がおられると思うのが普通だと思います。
聖書では、もともと生命は永遠で、精神を通して体験したものはすべて記憶されているということです。
イエスは最後の審判で、その記憶の内容を持って裁かれる。いやその記憶の内容が、あの世でのその人の行く場所を決めるのでしょう。
ということは記憶のもとである現世での生き方がいかに大切かということになります。
イエスは2000年前にこの世にこられ、あの世の高い世界、つまり天の国の話と神の支配が到来した話と、人間がおかれている状態と、そこから救われる方法を示されています。
イエスはこの世にイエスを信じる者のワールドを造ろうとされています。二人以上の信徒が集まればそこに教会があるといわれています。
もちろん、このワールドというのは神の家族の場です。それが教会という形をとっているといえます。
神は愛です。愛の中にある者は神の中にあるといえると思います。神もどこか天の高いところに鎮座されているということでなく、目に見えないもの、近寄れないもので形も無いと思うのです。
どちらにしても、有限界に住む人間には無限界のことは知りようがありません。「イエスが神の右に座したまえり」、というのも天と地を支配する一切の権限を与えられたことの喩えであると思います。
なにも本当に神の右に座られているのではないと思います。
どんな形にせよ、一つのドグマや教義に夢中になってはいけないと思います。
この世は聖書解釈を含めてすべてが相対的で、絶対的なものは一つもないと思うからです。人間として、何が真実かを知るために、常に心の中の神に問いかける必要あると思うのです。
そうすれば、神はきっと答えてくださる。なぜなら、神は人間を創造するときに、人間の中に神を見出すことができる、つまり、神と交信できる方法を置いておられると思うからです。
神が人間に自由意思を与えられたのなら、交信方法もきっとあるはずです。造りっぱなしで放りっぱなしはされないと思います。
その助けをしてくださるのが、神の霊、聖霊だと思うのです。その聖霊の働きに身をゆだねるとき、わたしたちは霊的な目が開かれる。それがあの世で迷わないための秘訣になると思うのですが。
現世における日常生活は、この世の行いは、来性においても記憶として残るのですから、みずからの自覚に於いて、明るく陽気に、落ち込んだり動揺したりすることがあってもいつも創造主である神を信頼し、分からないこと、どうしょうもないことは神にゆだねて神を信じて前向きに生きることが大切かと思います。
そして、生きとし生けるもの全てを愛する気持ちで、つまり、自分の幸せだけを求めないように人のために汗や涙を流して生きるように心がけるべきだと思います。
そのためにイエスの教えである「愛の掟」の真理を確りと捉えて、この世を生きるための指針としなければいけない。
それがあの世で幸せに生きることになるのではないでしょうか。お互いがお互いのために生きる世の中は何と素晴らしいでしょうか。
聖書は、真理であると思います。しかし理解して読むべきだと思います。
文字通りに受け取らず、伝統的解釈にこだわらず、聖書が書かれた時の時代背景を考え、イエスの言葉の意味とか聖書著者の意思を、聖書は聖霊の働く場ですから聖霊が働かれていると信じて、聖書を読み理解に努める必要があると思います。
聖書の書かれた時代は、今ほど開けておらず、宗教も無知な人民に教えるためにたとえがよくつかわれました。
もちろん、天の国のことは人間の言葉では表現しようがないのでたとえによっていますが、ある意味、たとえで表現していますから聖霊が自由に働くことができるとも言えると思います。
過去のキリスト教社会の歴史を見てみると、間違った聖書理解といいますか一つの解釈にこだわったために多くの人を苦しめました。大いに反省すべきだと思います。
人間は誰でも間違いを犯します。その間違いから学ぶべきことができるのが人間。それは神の摂理。
神は人間に理解力を与えました。その理解力を使って、自然界に顕現されている驚異と神秘の中に神を見出し、その余りの素晴らしさから生まれる魂の躍動、喜びの状態がほかならぬ天国ではないでしょうか。
それを助けるために働いておられるのが、神の霊、聖霊だとわたしは思っています。
わたしはこの状態を実際に十年前に経験しました。聖書の御言葉を読んでいたときに、生きとし生きるものと共に生きる命の喜びを体験したのです。命の輝きを体験しました。
無知とか利己心とか嫉妬心から愚かなまねをしないように。愛と理解力とを最大限に発揮してこの世を生きたいと思います。
そのなかでも、物事の意味を理解するということが最も大切かと思います。大自然の中に顕現されている神の業の理解、神の存在を理解して知ることが大切だと思います。
それができるのは人間のみで、これは人間に与えられた賜物といえます。
花の一つ一つに、香りがあり、色があり、品種ごとに個性があり、決してそれらはごちゃまぜにならない。
そこに神の摂理があると思います。それを見る目を養うことが必要かと思います。つまり霊の目が開くというのでしょうか。
いつも見ている何とも思わない自然の姿でも、霊の目が開かれてみる自然の姿は、あまりにも素晴らしく、驚異です。
そこに命が輝いて見えます。神は命の躍動そのものだと思います。
この自然界の中に物事の真理があると思います。
同じように、現世を生きるにおいて経験する、体験することの中で物事の本質を理解すること、それがこの世に生きる我々の仕事ではないかと思います。それを助けてくださるのが、イエスの御霊、聖霊だと思います。
そのように考えると、この世で学ぶことのなんと多いことか、とても平均寿命の八十歳では足りません。過ぎ去った年月が恨めしく思います。
宗教はこの世だけのもの。あの世では宗教は不要で、みな兄弟であり、姉妹だと思います。教会での兄弟姉妹の関係は、次ぎの世におけるわたしたちの姿、生き様を表しているのではないでしょうか。
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