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2009年9月22日 (火)

聖書をひとりで読む(1)

聖書は読まれているかどうかは知りませんが、世界のベストセラーです。また、聖書というのは信仰書ですが、教会へ行かないと読んでも分からないということはありません。

今回から三回にわけて聖書を1人で読むために参考となることを書いてみたいと思います。わたしも実質1人で読んできましたのでその経験を踏まえて書いてみます。

ある人からこのようなメールがきました。「私はクリスチャンではありませんけれど」という書き出しで「聖書の言葉に随分慰められました。涙が出てきて仕方ないのです。」と書いてありました。

家族の中で1人で密かに聖書を読んでおられるのです。

そのときわたしは今まで何となくブログ投稿をしていたのですが、投稿文の作成に責任の重さを自覚しました。このメールの方は、すでに信仰生活の第一歩を踏み出されました。聖霊が働かれているのを感じます。

聖書をこのように心の糧として、あるいは楽しみとか教養として読んでおられる方もおられます。わたしのようにわからないから知りたいという向学心で読み始めた人もいるでしょう。

楽しみに読むと言ったら、聖書は信仰の書物だから真剣に読まなければならないと、眉をひそめる人がいるかもしれません。

しかし、私は、基本的にどのような読み方でもかまわないと思うのです。イエスの御言葉(聖書の言葉)に触れることが大切だと思うのです。

分からないところがあれば、いまはグローバルな時代ですから情報源はいくらでもあります。

わたしも教会には行っていますが、聖書は1人で読んでいます。解釈の分からないところは、専門書とかネットで調べています。

牧師先生に尋ねたこともないし、たとえ尋ねても、おそらく通りいっぺんの回答で、納得するような回答は返ってこないでしょう。

先生も忙しくてゆっくり相手をしてくれないかもしれません。それなら自分で学ぼうと思いました。

いまわたしは、聖書を読んでいて誰もが単純に疑問に思うところを自分が納得するまで調べるようにしています。だから教理とか神学を学問的に研究しているわけではありません。

たとえば、「神は存在するのか・・」「天使なんているのか」「聖霊とはなにか・・・」「奇蹟なんて本当にあるのか・・・」「復活ってなに、そんなバカなこと・・・」「聖書に書いてあることは全部作文では・・」「イエスは本当にいたのですか」「サタンは本当にいるの・・」「福音書は矛盾だらけでは・・」「なぜキリスト教はここまで大きくなったの・・」といったたぐいの初歩的な質問を自分に連発して自分で回答をさがして納得しています。

わたしもこれらの初歩的な疑問を解決してから洗礼を受ければよかったのですが、まったく何も分からない状態で洗礼を受けました。もちろん、きっかけはありました。

それは、そのときは何のことか分からなくて後から知ったのですが、聖霊体験と思われる不思議な体験をしましたので、その体験の余りの素晴らしさに、何の迷いもなく洗礼を受けてしまいました。

それに、キリスト教のことを知るためには飛び込むのが一番ですからね。そして、間違っていれば引き返せばいいや、とも思っていましたが、引き返すことなく十三年が経ちました。

というようなわけで、洗礼を受けてから、ゆっくりと初歩的な疑問の答えを求めて、独学で解決しょうとしたので十年間を要したのです。

わたしは思いますに、現在の日本には、わたしのように、キリスト教に関心をもっているのに、「こういう初歩的な疑問」が心の底にひっかかっていて、聖書の世界に入れない人が随分いると思うのです。

「いったい神は存在するのか?」という根本的なところから始まって、こういうさまざまな疑問に悩まされている人には、聖書の言葉も、すんなりとは受け入れられないと思います。この気持ちはよく分かります。

疑問が一応理解できたら、不思議にも、聖書は事実なのだ、イエスとはやはり神だ、と思いました。そのときキリスト教は宗教ではなくてこの世界の真理だと思いました。

後から詳しく書きますが、先に書いた霊的な不思議な体験というのは、それはいただいた命の輝きの喜びと、自分の内なる罪の深さを自覚したことです。

具体的にわたしが聖書を読んで思ったことを書きますと。ヨヘネの福音書を解説書と並行して読んでいて、ふと思ったのです。

細かいところは別にして、イエスの言われたことがすべて理論的で筋が通っている、と。四福音書に書かれていることは矛盾だらけですが、イエスが伝えようとすることは同じで筋が通っているのです。

そして、それがすべて実現しているのです。イエスは自分が十字架で死んでから後のことまで予告されていますが、それも実現しているのです。

聖書が作文なら、当初の、イエスの生前をよく知っている弟子が命をかけてイエスの教えを伝えようとしたことは説明できません。だれも作り話に命をかけません。

それに、この2000年間イエスの教えを信じるものが次から次へと起された事実です。それも無数の人々が福音書を読みイエスの教えを信じて、中にはその教えを守るために殉教した人もいます。

作文で殉教しますか。

言えることは、聖書は、およそありとあらゆる時代の人たちに読まれ、理解され、信じられてきました。それほどに分かりやすく、しかも深く現実に根ざしているということです。

次にわたしの聖霊体験ですが、1996年10月11日のことです。新約聖書ルカによる福音書第12章22節の御言葉を読んでいた時に、わたしの自分の内なる命が輝いたのです。

それからというもの、しばらくの間生かされているのが嬉しくて飛び跳ねていました。森の中を歩いた時など、木も、草も、鳥もみな生きとし生けるもの共に生きている、その命は輝いて躍動に満ちている、そう思ったのです。

そのような経験も踏まえ、このときわたしは聖書の言葉、イエスの教えには命があると思ったのです。

キリスト教は言葉の宗教といいますが、まさにそのことを自分で確認したのです。きっと、わたしを信仰に導くために聖霊が働かれたのでしょう。

わたしは、そのこと、つまりイエスの言葉に命がある、聖霊が働かれている、この事実がキリスト教をこの2000年間存続させてきた原動力だと思いました。

その時代の多数の学者が聖書の真偽を研究しましたが、だれも否定できないのです。

もちろん、2000年前に作成された福音書ですから書かれてあることの事実確認は難しいところがあるでしょうが、だれも荒唐無稽だと否定できなかったのです。

奇蹟にしても、よく考えれば目の前にある出来事すべてが奇蹟ですよね。

花の種に水をやればなぜ成長して花を咲かせるのですか、その他にも、この宇宙の森羅万象をよく見ていると、不思議なことばかりです。奇蹟ばかりです。なにも驚くに足りません。

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