この世とあの世の人生観(1)
この世には分からないこと、つまり科学では解明できないこと多すぎます。ここでは、聖書とか類する本を読み、自分が経験したことを踏まえ、思うところを気楽な気持ちでこの世とあの世の関係について書いてみました。分けのわからないことを書いていると思われるでしょう。
その通り、わたしは霊能力者でもなく科学者でもなく、書いていることに確たる根拠もありません。聖書を学んでいるなかからヒントを得て大いに推論して思うところを書いてみました。三回に分けて投稿します。
わたしは唯一の創造主である神が存在すると思います。世間でいう「あの世」もあると思います。ただし、この「あの世」というのは聖書でいう「新しい天地」とは別物だと思います。
イエスがこの世にこられたこと、その教えも信じます。もちろんイエスの御霊、聖霊がこの世でわたしたちの成長を助けるために働かれているとか、神のみ使いである天使の存在も、
そして、わたしたちを神から遠ざけるように働くサタンと悪霊(悪魔とその一団、天使が変質したもの)の存在も、そして、邪悪な人間の霊とかこの世に執着する人間の迷える霊がわたしたちの周りをうろうろしていることも。
そして、死ぬということは、セミが脱皮するように人間も肉体を脱ぎ棄ててこの世からあの世に行くようなものではないかと考えています。
この世で起こる理解できない人間の奇行とか心霊現象(嘘も多いと思いますが中には本物も)、精神疾患の一部はおそらくそのような霊が影響を及ぼしているのではないかとも思っています。
そのような悪霊たちの影響を避けるためには、この身体を心身ともに健康に保つことが必要だと思います。悪霊たちは自分と同じような性質の人、心とか肉体が病んでいる人などに影響を及ぼしその人の魂を悪いほうにみちびいてしまうのではないかと思います。
そうなればあの世に行ったときに、つまり神のみ前に立ち裁きを受けるときに余り良い結果を得られないと思います。そのようにならないために、イエスはこの世に来られ、また聖霊がそのために働いておられるのだと思います。
この世は、永遠に流れる生命の最初の課程、小学校ととらえたいと思います。命の本体は霊であり、霊は、この小学校の過程において必要があって肉体をまとっているものと思います。
霊はもっと自由なもので肉体は霊の自由を制限していると思います。本当に肉体は不自由です。疲れたら眠たくなるし、休まなくてはならない。病気もします、怪我もします、食事もとらなくてはいけない、なにより行動が不自由です。
それらのことはすべて必要があって、創造主が人間に、不自由な肉体と共に生きる人生を与えられたのだと思います。この世で起こることに何一つ無駄なことはないという考え方です。
この世に生きているうちに、この世の生活のことだけでなく、あの世の世界についても勉強はしておくべきだと思います。
こうして生きている自分は何なのかについても勉強しておく。死後のことは死ねば分かる、慌てなさんなと言われる方もおられますが、この世に生きているうちに学べることは学んで心の準備をしておくことが必要かと思います。
小学校の勉強をおろそかにしたら、きっと、高校とか大学がある「あの世」で困ったことになるのではないでしょうか。
なぜなら、あの世が本体でこの世は影ともいいます。あの世が無ければこの世の出来事はすべて無意味であるともいいます。そうであれば、この世はあの世の準備の為にあると考えてもおかしくはありません。
わたしは、創造主である神が、人間に色々な動物とは違う能力を与えているのは必要があってのことだと思うのです。
たとえば、思考力、探究心、永遠を思う心、知力とか知識、愛する心、思いやる心、努力、忍耐、意志、理性などなどなど。
好き嫌いの感情とか嫉妬とか自己中心とか利己的とか闘争心とか、つまり、本能に関するものは自分では自覚しているかどうかは別にして動物にもあると思うのです。
神はわれわれ人間に、人類の進歩の為に、肉体を健康に保つために知恵を生み出す知力を与えました。
人との関係を上手くやっていけるように愛する心とそれらを実践するための意志を与えました。本能をコントロールするために理性を与えました。
そして、人間に己の本当の姿を教え、この世を生きるための指針を示すためにイエスを使わされました。
そのイエスの志を継いだ神の御霊、聖霊は人類を間違った歩みから本来あるべき歩みに導き、この世を無事に卒業できるように今もわたしたちを助け導いておられます。
神は、生まれ持った本能に、動物には無い人間独特の能力を活用してこの世を賢く生きなさいと言われているように思います。
どちらに偏ってもダメだと思います。バランスをとって生きなさいといわれているように思います。それは、人間が人間たる所以であると思います。
今の世の中は、すこしこのバランスが崩れているように思います。人間のもつ本能が悪い形で強く表にあらわれていると云えないでしょうか。
知恵は文字を生み出しました。人類はその文字を活用して同じ情報を大勢の人に伝えることが出来るようになりました。そして、世代を超えて知識の継承が出来るようになりました。これは科学の進歩に非常に有利に働きました。
イエスを信じる信仰も、信じなさい、信じることによって救われるというのも真実だと思いますが、信じるには理解が必要だと思います。
知識を得て理解する、その理解が一定以上(すべてではありません)になると信頼(信仰)が生まれます。そうすれば自ずと教えが行為として実践されるのは当たり前のことだと思います。
わたしは信仰による行為が大切だと思うのです。きっと、あの世へ行けばそれだけの報いがあると思うのです。信仰が行いに結び付かないわたしなどは、天の国へ行けばきっと末席に甘んじることになるのでしょう。
知識を伴った信仰が大切だと思うのです。信仰に理解とか知識が無ければ盲信になります。神は人間に決して盲信を進めてはおられないと思うのです。
分けがわからなくても信じなさいといわれるなら、神は人間に考える力とか探究心を与えられなかったと思うのです。理を追究する心も与えられなかったと思うのです。
もちろん、この地球を含む宇宙の創造の真理を全部わたしたちに開示されているわけではありません。人間に開示されていることはおそらくこの宇宙の真理のそうですねほんの一部なのでしょう。
イエスが云われたことにも分からないところが多くあります。それは最初から隠されていることだと思います。
分からないところは、子供のように信じなさいと言っておられると思うのです。開示されていないことを無理に理解しょうとすれば、間違って理解することになると思います。
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