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2009年7月23日 (木)

人を裁くな

マタイによる福音書第7章1節と2節「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなた方は自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」という聖句があります。今日はこれについて考えてみます。

人間社会は裁きがなければ成り立ちません。人間社会が成り立つためには正義に基づく秩序が必要です。その秩序を破る者は排除されなければなりません。

社会の秩序は道徳とか法律という規範によって表現され、それを破る行為は社会的非難や裁判によって排除されます。人間が人間を裁くことなしには、人間社会は成り立たないのはだれでも異論はないと思います。


ところが、イエスは人を裁くなと断言されます。できないことをしろといわれても、クリスチャンとしては困惑するばかりです。

もしすべて人を裁くことが禁じられたら、どうして人間社会は成り立つのでしょうか。いったい、イエスはどういう意味で人を裁くなと言っておられるのでしょうか。

人を裁くなという命令の意味は、聖書のその聖句の前後を読んでみますと、その命令と一体で語られている「あなたがたも裁かれないようになるためである」という後の文によって理解できるのではないでしょうか。

後文の「裁かれないように」というのは、神に裁かれないようにという意味だと思います。したがって、イエスはこう言っておられると理解できます。

「神があなたがたを裁くことがないように、あなたがたも人を裁いてはならない」と。

つまり、「この世の終わりにわたしは再び来るが、その時に神があなたがたを裁くことにならないようにあなたがたはいま人を裁かないでいなさい」という意味になると思います。

ルカによる福音書では、この人を裁くなの言葉は、「あなたがたの父が慈愛深いように、あなたがたも慈愛深い者となりなさい」という言葉の直後に置かれています。すなわち、ルカによれば人を裁くなは「慈愛深い者となれ」の一部なのです。

「慈愛深い者であれ」という言葉は、慈愛深い父を模範として、そのように慈愛深い者であれという命令ではなく、父の慈愛の中で生かされていることを忘れずに、その愛の中に留まるようにという勧めだと思います。

同じように、この裁くなという言葉も、命令ではなく、父なる神の恵みの中に留まるようにという勧めではないでしょうか。

父は無条件絶対の愛で受け入れてくださっているのだから、あなたがたも人を裁かず、人を赦しどのような人も無条件に受け入れることによって、父の恵の中に留まりなさい、という勧めだと思います。

父なる神の愛の中に留まれば、人を裁くこともなくなるということではないでしょうか。それが「裁かれないようになるため」ということの意味だと思います。

なぜなら、われわれ人類には、いずれ神の正義がなされるための裁きを受けるという終末が待っている身だからです。

それでは、「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」というのはどういうことでしょうか。これは公平、正義の原理そのものです。

なぜなら、売るときの秤と買うときの秤を変えることは、不正義だと思いませんか。正義はいつも同じ秤を用いることではないでしょうか。

そのように、もしわたしたちが人を裁くならば、その裁きと同じ規準で裁く者も裁かれなければならない。マタイは同じ秤でというたとえを、同じ規準で裁かれるということを語るたとえとして用いています。人を裁かなかったら、その人も同じ基準で裁かれないのです。

裁くなという意味を、別の観点から見てみますと、たとえば、その人の責任でもないその人の生まれ持っての素材とか環境の良し悪しで罪を犯す場合もある。

だから、その人の行為だけを、表面だけを見て裁くなという意味だと思うのです。中身を見なさいと言うことだと思います。そのように思いませんか。

肉体が病んでいるゆえに性格がゆがむことも多いと思うのです。生まれ持った悪い環境ゆえに、いじめられ性格が変えられることもある。

だから、その性格からくる行為だけを見て裁いてはいけないということだと思います。肉体がなくなって本当のその人の姿が表に現れたら、本当は思いやりのある温和な性格の人かもしれません。

生まれ持ったもの、つまり、良い遺伝や良い環境に恵まれた者はその人の行いが良かったからではなく、神様からの賜ものです。その人が自慢することではありません。だから、問題は与えられた素材を用いていかに生きるかということだと思います。

せっかく良い素材を与えてもらったのに使わなかったら何の意味もありません。次の世へ行けば叱られるかもしれません。

逆に、悪い素材で生まれた人もその環境で精一杯正しく生きようと努力すれば、たとえその結果が人から見て満足のいくものではなくても、きっと次の世へ行けば褒められると思うのです。

神様はその人が持って生れた素材をいかに用いたかによって裁かれると思うのです。この世では、人の本当の姿は分からないのだから、イエスは裁くなといわれたと思います。

人には外から見える部分と外から見えない部分があります。表に出ている行為だけでは人は判断できません。この世の裁きは、目とか耳で確認できる場合だけを裁きます。

その裁きの基準も人間関係でみればまことに自己中心的です。自分にとって不利益だから裁くのです。自分の基準で人を裁けば自分もその基準で裁かれるのは正義です。

天の国は正義が全うされる国です。この世の裁判制度も社会正義を司るものですが、完全なものとは言えません。

人は与えられた賜物、与えられた環境の中でそれらを用いながら生きている。その用い方の一つ一つがその人の外からは分からない本当の姿である主体部分に日々影響を及ぼしているともいえないでしょいうか。

天国的とは、神と、他者と、自分自身との調和した状態。

そこには喜びと平和と永遠の平安がある。地獄的なものとは、神と他者と自分自身との争いと憎悪の状態。そこには、狂気と恐怖と永遠の孤独がある。

わたしたちは毎日毎日の一瞬一瞬小さな善悪の選択によりこの二つの状態のどちらかに向かって進んでいると思うのです。

善人は悪を知る。善人になるに従ってより悪を知る。悪人は悪に深入りするにつれて自分の悪がますます見えなくなる。

人の主体部分が悪でゆがめられないために、自分が裁かれないために人を裁かないためにも、キリストによる導きと許しが必要だと思うのです。自分の力では、自分の努力ではどうしょうもないと思います。

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