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2009年7月12日 (日)

人間の新生(2)

「人間の新生(1)からの続きです」
イエスがこの世にこられた目的は、人間に完全になってほしいという御心を伝え、その方法を示すためでありました。それはまさしく、人間の新生といえるものだと思います。その途上の人間がクリスチャンということになります。

反逆していた人間の心を開き、神を信じるように導き、その人を造り変えようとされている。この世だけでは、造り変え、つまり新生は完成しないので次の世でもおそらく新生の努力は続くのではないでしょうか。


だから、死ぬのも新生の中の一つの段階と言えないでしょか。わたしは、死をそのようにとらえたいと思っています。

人間の新生の完成は、「敵を愛する愛」「隣人を自分のように愛する愛」が普遍的な法則となり支配している状態で、それが天国、神の国ということではないかと思います。

そのような愛の実践を求められるのは、たとえば、殺人の原因が、病んだ肉体であることも、育った環境であることも、遺伝であることもある。 

だから、殺人者の罪は罰せなければならないが、その人を憎んではいけない、それはあなたの為でもある。と言われているように思います。罪を憎んで人を憎まずの精神です。

だから大切なのは、自分ではどうにもならない、持って生れた性格とか賜物ではなく、与えられた性格とか賜物をどのように用いるかということではないでしょうか。

憎んではいけないのは、人を憎めば憎しみが憎しみを産み最後には憎むことに快楽を覚えるようになる。そうなればその人の本体、つまり肉体を脱ぎ捨てた後のその人の本当の姿が醜くなる。そして、どんどん神から遠ざかってしまう。

肉体が滅び次の世へ行きその人の本体がもろに表に出るようになれば、もし本体が醜ければ神の前に出ることができません。

被害者に殺人事件の加害者を憎むなというのは、被害者の心情を思うとそれは余りにも辛いことです。でも、それでも神に助けを求めて、神の戒めを守ろうとしていれば、神は必ずどこかで傷ついた心を癒されるものと思います。

善も悪も憎しみと同じで複利で増殖すると思いませんか。そうすると、殺人という大きな事件でなくても、この世に生きている中で、わたしたちが毎日行う小さな決断が大切だということになります。

小さな自己中心的な決断が数を重ねると何が善で何が悪か分からなくなり、その人の本当の姿を知らぬ間に醜くしてしまうという恐ろしい結果になるのではないでしょうか。

イエスが「隣人を自分のように愛しなさい」といわれましたが、いくら聖霊が内住されていても、新生途上の未完成の状態ではその愛を実践するには強い意志が必要です。

なぜなら、自分に不利益を及ぼす人を含め、すべての人を無条件で愛する必要があるからです。

人の好き嫌いは自然本能的なものだからどうしょうもありませんが、ちょっとした人の言葉に、無意識のうちに腹を立てたり軽蔑したりしている自分に気が付き驚くことがたびたびであります。そのときに一つ一つ反省していれば

よいのですが、反省もしないでいるとそのような状態が当たり前になり、しまいには自分が人を軽蔑していることに気づかなくなってしまうことがあります。気をつけなければと思っています。

キリストを信じれば、聖霊がその人に内住し、その人を神に似た者へと導き、死んだあとには新しい生命の内にあって神とともに生きることができるようにしてくださる。

そうですね、これをキリストにあって新しい生命、新しい種類の人間が生まれるということになるのだと思うのですが、キリストの十字架にあわせられて一度死んだ人間が造り変えられるのですから、新しい人間が出現するともいえると思います。

この生まれながら持つ自然の命は、今の人類の始祖アダムが、エデンの園において神から離反したので、その状態は子孫であるわれわれにも引き継がれました。神からの離反の結果、聖霊は人間に働きかけることができなくなりました。

神の霊、聖霊はわれわれの命の元です。命の元を断たれた人間は肉体が滅びるのは当たり前ですが、神様からの恵みを受けられなくなり、霊的にも死ぬ者となりました。

キリストを信じたら聖霊がその人に内住し、その人を霊的に生きる者とし、その人が新しい生命に生まれ変わるように導きます。

といいましても、その人は相変わらず現世を生きているわけですから、一時にではなく、いろいろな試練にあいながら徐々に導くわけです。本当に分からないくらいゆっくりとです。

そのような、新しい生命に生きるクリスチャンというものは、聖霊に導かれているとは言え、絶対に過ちを犯すことのない人間でなく、つまずくたびに悔い改め、再び立ち上がって始めからやり直すことのできる人のことを言うのだと思います。

キリストにある生命が彼の内にあって、彼をつねに修理する。だからクリスチャンは世間で善良であろうと努力している人たちとはちょっと違った立場にあります。

通常人が善良なことをするのは、他人によく見られたいとか、よい子であろうと思うから努力するものです。反面クリスチャンが善良なことをするのは、自分の内にあるキリストの生命、聖霊の働きからでたものと言えます。

人の眼は関係ないのですね。自分がそのようにしたいからそうするのです。

イエスはいわれた、過去の罪を悔い改めて、自己をキリストの十字架とともに捨て、聖霊の働きにすべてを委ねて新しい人生を歩きなさい。わたしが創造の目的に沿うようにあなたを造り変えてあげよう。完全になりなさい。

そうです、イエスの約束の言葉を信じ、神の霊、聖霊を受け入れれば、聖霊があなたを誘導し完全なものに変えてくださる。

人間の力で、人間の努力で出来ないことでも神にならできる。だから聖霊の導きにあなたの人生のすべてを委ねなさいと言っておられると思います。「人間の新生(3)」に続きます。

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