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2009年7月14日 (火)

人間の新生(3)

「人間の新生(2)」からの続きです。(1)と(2)において、わたしはクリスチャンは聖霊に導かれて完全に向かって歩む新しい人間というようなことを書きましたが、このようなことを書けば、なぜ世のクリスチャンといわれる方はすべて聖人ではないのですかと問われそうですが、

それは聖霊を受けた新しい人間でも、古い人間の性質をもったままですから、クリスチャンの中には聖霊の働く新しい性質と生まれながらの古い性質が同居しています。

そして、この世は相変わらずサタンが活躍し、人間の自己中心的性格はそう簡単に改まるものではありません。
それにこの世は所有欲、権力欲、色欲に満ちて罪への誘惑も多い。


また、聖霊が内住して新しい人間に作り替えると言ってもそういう状態の中ですから変えられるのも一時にではなく少しずつ、本当に少しずつ本人も気がつかないうちに変えられていくことになるのだと思います。

そういうわけで、この世に生きている間に神の創造の目的に適うまで完成することは不可能です。

罪と戦いながら、誘惑と戦いながら一歩一歩と前進するのです。罪を犯しては悔い改めをしながら成長していくのです。

おそらく新しい人間の創造にはそういう形での過程が必要なのだと思います。そういう意味で、死も新生のための過程の出来事の一つだと言えます。

このように人間をとらえると、もしわたしが進化論を認めるとしたら、キリストを信じる者の聖霊による新生が、進化による新しい人間の創造ではないかと思います。そういう意味では、人間の進化が既に始まっているといえます。

進化論か創造論かという論争がありますが、動物も人間もDNAというおなじ手段で遺伝情報を伝えていること、両者のDNAの違いはわずかだということから動物とか人間の創造が同じ法則により生かされていると思うし、そうであれば、その背後に同じ創造者が存在すると信じるのはおかしくはないと思うのです。

人間も動物も偶然の産物なら、存在するものの中に統一された法則などないはずです。

わたしたち人間は、一定の法則(道徳とか良心とか理性のこと)のもとに生きています。

わたしは猫を飼っているのですが、最近思うのは、猫もやはり一定の法則のもとに生かされているということです。猫はわたしたちが思う以上に物事が分かっていると思うのです。

この世に創造者がいるなら造られたものの中に創造主の意志が働いていると思うのです。

それがわたしのいう法則ということです。イエスは創造者がいることと、創造者の意志と創造者(神)の支配がはじまったことを伝えました。そのことが真実であることを、奇跡と死と復活を持って証明されました。

現実の世の中は、不法と不条理がはびこりある意味地獄です。

創造主は、その中から自分を信じる者を助けだし、その者とともに生きるために助け出した人間の新生を働き掛けておられると思うのです。そのために、この世に創造者を信じる者のワールドを造ろうとされている、それがキリスト教会ということです。

最後に少し長いですけれども、それらのことを現している使徒パウロの言葉をあげておきます。

ローマの信徒への手紙第8章18節から23節
「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは自分の意志によるものでなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に生みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちはこのような希望によって救われているのです。・・・」

ここで、被造物というのは、人間以外の被造物(自然界)全体を指すと思います。神の子はクリスチャン、つまり新生途上にある新しい人間のこと。

虚無というのは、神から離れて罪に捕らわれて死ぬべき命に沈むこの世のこと。恒常的なものがない無常の姿。目的がない無意味さ、はかなさをいう。

ただし、この虚無は、将来の解放という希望の下にある虚無であります。服従させた方はもちろん神。

希望は、虚無が克服されること。つまり、罪の体が贖われて、次の世で霊の体で復活し、永遠の命に与ること。それが神の計画によるものであることが示されている。

被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されてとは、イエス・キリストにおいて始まった人間の救済のための神の業が完成される終わりの日に、人間だけでなく被造物全体もまた神の救済の完成にあずかる希望の下にあるということ。

霊の初穂をいただいているわたしたちも、・・。とは、初穂は、復活されたキリストのこと。キリストは新しい人間の初穂です。ここでは、キリストを信じる者の心に注がれている聖霊を指すと思います。

こうして、神に属する者が次の世で復活し、罪と死の支配から完全に解放されて神の栄光にあずかるようになる。

体が贖われるとは、自然の命の体でこの世に蒔かれて、次の世で霊の体で復活すること。心の中でうめきながらとは、最終的な完成の前に全世界は大きな苦難の時代を体験するが、その苦難は新しい世界を生み出すための陣痛と表現されている。

人間救済の究極の目的は、キリストを信じる者を死者の中から復活させて、復活したキリストと同じ像にすることだと思います。コリントの信徒への手紙第一の15章の通りです。

そして、人間の霊は最後の最後にはどのようになるのでしょうか。旧約聖書コヘレトの言葉第12章7節にこのような聖句があります。「塵は元の大地に変えり、霊は与え主である神に帰る。」

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