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2009年6月 2日 (火)

自由に生きるとは

私たち自身の自由をもう少し掘り下げて考えて見ます。先ず私たちの肉体に目を向けると、肉体は、私は、食べたい、飲みたい、眠りたいと欲求します。これは自然な欲求です。

しかし、いくら自然な欲求で、そうすることが自由であっても、欲求の命じるままに食べたり飲んだりしていたら、生活習慣病を発症し、きっと体を悪くします。

私の体をいつも健康な状態に保っておくためには、私は、自分の内に宿る自然な欲求をコントロールする、言い替えると、常に欲求を、節制するとか場合により断ち切っていかなければならない。


つまり、私は、自分の体の欲求から自由にならなければ、自分の体を健康に保つことが出来ないということになります。

命を生かし支えてくださるのは神様ですが、自分の体のメンテナンスは人間の役目です。人間の体は神様と人間の共同作業で健康が保たれるように出来ていると思います。

次に、私たちの意志について考えてみます。意志が強いことはよいことですが、何がなんでも自分の意志を通さなければ気が済まないという人がいます。

自分の意志よりももっと大切なものがあることがわからない。このような人は、他者の意見を聞こうともしないのでなおたちが悪い。神様が誡めておられる自己中心性の最たるものです。

もっと、上手がありました。それは、感情だけに頼って行動する人です。自分の気持ちだけが一番大切な人、自分が世界の中心、自己愛の典型です。こういう人も困ったものです。

それでは私の気が済まない二言目にはこう言う人です。自尊心の強い自分の感情を絶対と考える人です。他者の意見を聞こうともしない。他者の気持ちを考えない人です。

このように、自分の意見とか気持ちだけにしがみついて生きていると、人に迷惑をかけると思います。おそらくその人は、人に迷惑をかけていることには気がついていないのでしょう。

気がついていたら、そのようなことにはならないと思います。他者の立場に立って物事を考えることが出来ない人ですから、おそらく、自分を客観的に見つめなおすこともないので、反省し、悔改めるチャンスにも恵まれない。

新聞記事に次のような記事を見ました。「本を読まない人は自分を客観的に見ることが出来ない。」

自分を客観的に見るには教養が必要なのですね。教養は人間のためにあるものです。過去を悔い改めることができるのも人間のみです。

そのような人は、何が問題かといえば自分の変わり易い気持ちに縛られている、ということだと思います。私たちは、自分の意志や感情から自由にされてはじめて、正しく、人を見、自分を見ることができると思うのです。

けれども、これよりもっと強い、そして高い能力が私たち人間にはあります。それは理性です。理性は人間の内に宿る最高の能力だとされてきました。古代では理性には神が宿るとさえ言われていたのです。

理性は進歩するかどうかは知りません。その理性に究極の質問をしてみてください。「神は存在するか?」、存在するなら「どこに存在するか?」。

どんなに人類が歴史を重ねても、どんなに科学が発達してもその質問から人類は逃げることはできません。人類の最後の質問は必ずそこにくる。今までもこれからもずっとです。

その質問を解決するのは、創造主である神を、イエスの約束の御言葉を信じる信仰しかないのです。人類の歴史上イエス以外に神の存在を身を持って立証した人はいるでしょうか。いないと思います。だからわたしはイエスを信じるのです。

おそらく1万年後に人類がこの地上にいたとしても同じだと思います。イエスはいわれました。「主の言葉は永遠に変わることはない」(ペトロの手紙第一 第1章25節)。

そのイエスの御言葉に働く、聖霊。人間の意志も感情も、そして理性もすべてを覆う神の霊、聖霊。先ほどの質問の回答を教えてくれるのが聖霊だということです。

もし、創造主である神の霊、聖霊が自己に内住すれば、罪なる思いに支配された潜在意識が聖霊の思いに支配されることになるので、潜在意識からでてくる罪なる思いを自分の努力でコントロールする必要がなくなる。

聖霊からでる思いは神の思いであるから、それに素直になることは、神の思いに従うことになる。そうすると自分を本当の意味で活かすことができる。

テレビは人間に造られたから、造られた目的にそって働いて始めてテレビであって、造った人間も喜ぶのと同じだということです。

人を見て生きることは、自然なようですが、自由ではない。自由になろうとすれば、自分を造った神を見て、神の思いにそって生きることだと思うのです。そのとき初めて、人間は、意志とか感情から自由になれる。

こうして、自我から解放されたときに、はじめて自分と最もうまく付き合うことができる、こう言ってもいいのかもしれません。

好きなことをして、気ままに暮らすのも一理あると思うし、そのよさを私は否定しませんが、そこには自ずと限界があると思うのです。

そう言う人でも、自分の人生を振り返って、自ら進んで厳しい束縛に自分を置いたことがあると思うのです。

将来の独立の為に国家試験を受けるとか、受験勉強をするとか、新しい仕事に挑戦するとか、仕事で与えられた目標達成の為に頑張るとかです。

それは、充実した生き方をしたいからだと思います。それは、自分の自由を最大限に活かして用いるということだと思います。

することもなく、悩みも苦しみもない人生は、なんとうら寂しいというか空しい人生でしょう。それだけでは、せっかくの自分の自由が活きてこない。死んでいることになる。そこには、充実という言葉はありません。

人間はどこかで充実した人生を送りたいと思っているのではないでしょうか。何一つ真剣に追求するものがない。

自分にはこれといってすることが何もない、これは人間には辛いことなのだと思います。

仕方がないからいろいろな方法で暇をつぶす。与えられた時間、自分の自由の中身を無意味に「つぶす」のです。

人間は本来そのようには造られてはいないと思うのです。いつも自分の人生を充実させたいと思っているのが人間だと思います。

それについて、アウグスティヌスという人は、「私たちの内には、永遠性を求める魂の欲求があるからだ」と説明しています。

そうかもしれません。私たちが自分の生を充実させたいと願うのは、何か、自分の内に不滅なものを宿したいという本能みたいなものがあるからではないでしょうか。

いつも満たされない気持ちがあるのはそういういうことではないかと思うのです。

もちろん、不滅なものを求めるとは、永遠な存在である神の存在、自分を造られた創造主の存在を求めるということです。何一つ確かなものがない無常なるこの世に住む者としては当然の欲求だと思います。

満たされないまま、私たちがこの世を去るときに、自分の生涯がどこまで本物であったか、充実していたかという死ぬことの意味にまでつながると思います。人は生きてきたように死ぬといいますからね。

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