人間は必ず死ぬのですが
聖書には、人間は霊的存在で、死には肉体の死と霊の死があると書いてあります。この世に生きているわたしたちの目に見える形で確認できるのは肉体の死です。まず、肉体の死について考えてみたいと思います。
わたしたちは死を自分のこととしては考えようとしないところがあります。目の前に死が近づいてきて初めて考える。だから、突然死が襲ってきたら慌てることになる。
若い時などは、自分が死ぬのは遠い先のことだと思っている。実感がない。これなど大いなる錯覚です。
本当のところ若くても歳をとっていてもいつ死が自分を迎えに来るのか分かりません。そうはいっても、死ぬことばかりを考えていたら病気でが。
すべての人は、いつか必ず死ななければならない存在です。これには、いかなる差別もありません。
病気や病弱な人だけでなく、今健康に何の不安もない頑健な体を持った人も、やがては必ず死ぬ時が来ます。もちろん、貧しい人でも大金持ちでも例外はなく死ぬ時が来るのです。
誰でも、病院の医者から「あなたは癌です。余命6カ月です。」と告知されたら、大きなショックを受けるでしょう。なぜでしょうか。
死ぬのが怖いからか、死に方が恐いのか、慣れ親しんだこの世から一人で去って行くのが淋しいからでしょうか。次ぎの世があるかないか分からないからでしょうか。
人により受け止め方がそれぞれ違うでしょう。人は生きてきたように死ぬといいますからね。死を恐れる人は、やはりこの世に置いていくものが多い人、自分は生かされているのではなしに生きていると思っている人に多いのではないでしょうか。
死んだ後のことは、信仰を持っていない人は、わたしの知人などを見ていますと、案外、心配しても仕方ない、次ぎの世があればあるでよし、なければないでよし、ということであまり気にしていない人が多いと思います。
考えても仕方ないから考えない、というところですか。でも、死が目の前に迫ればそれも分かりません。
最近のわたしは、死ぬことよりも自分はどのような死に方をするのかが気になります。あっそうそう、次の世でまた一から新しし生活が始まるのかな、大変だな、でも誰でもが行っている世界だから何とかなるだろう、と考えたりもします。
死は嫌なものです。考えると気持ちが暗くなります。考えたくもありません。しかし、人がどんなに死について考えないようにしても、人間は動物と違って未来のこと、死のこと、死後のことを考えざるを得ない。
そのわけは次の世があるからと考えられないでしょうか。これもわたしたち人間に与えられた神の意志だと思います。
人間は、この世に生を受けて、誕生した瞬間から、一刻一刻と死に向かって歩んでいます。わたしは、人間は死ぬから人生に意味があると思っています。
終りよければすべてよし、という諺がありますように、死は人生の集大成だと思うのです。わたしが死に方が気になるというのはそこなのです。
身近な人が亡くなった時は別にして、他人の死は、時により悲しむこともあるでしょうが、直ぐに忘れ去れてしまいます。
冷たいようですが無常なるこの世においてはそれも当たり前のことだと思います。毎日の出来事は何もなかったようにどんどんと過ぎ去っていきます。
老後のことにしても、若い時は老後が自分にくるなんて頭では分かっていても実感がないのが普通です。そう言う意味で、人は今を生きているといえます。過去でもないし未来でもないのです。
聖書によれば、死ぬ時は神様が決められると書いてあります。だからいつ死ぬかびくびくしていなくも、どんと神さまに任せておけばよいのです。
順番が来れば少々この世に未練があっても“はい”といってさっさと次の世に行けばよいのです。
神様は決して悪いようにはなさらないはずで、死ぬ時も最善の時を選んでくださいます。
朝起きたらまず神様に今日与えてくださった命に感謝し、そして、その日その日を、御心にそって生きることができるように祈りながら精一杯生きればよいと思います。
それでも、もし、最悪の状態で死を迎えたら、それも何か意味があるのでしょうから、あきらめましょう。どうせ後には戻れないのですから。先に希望を持つしかないものね。
自分は何処から来て、何処へ行くのだろう。今生きている意味は何だろう、なんてわたしは若い時はよく考えました。
キリストを知らないうちは、これらの疑問もどのように考えたらよいのか分からなかったけれども、イエス・キリストに出会って、人生がわたしたち人間の存在意義を見つける旅だと知りました。
イエスは死が大切なのではなく、生き方が大切なのだといわれています。言い換えれば、死も生き方の一つといえます。
聖書には、人間は、創造主である神が、御子イエス・キリストの言葉をもって創造されたと書いてあります。そして、人生の生き方も書いてあります。
なぜ死ぬ(霊の死)のかも書いてあります。聖書では、人間は本来霊的存在で、肉体が滅ぶのは当然で、人間にとって問題は霊の死だと書いています。霊の死について少し書いてみます。
肉体は時間と空間に制約された世界で生きるために必要なものです。時間と空間の制約のある世界を抜け出せば肉体は不要になり霊が残ります。人間の本体は霊なのです。
聖書によると、人類は最初から霊的に死ぬべき者として創造されたのではありません。神(創造者)は、最初のアダムを創造されたとき、人間が、生きものが生きていく上に最善の環境が備えられたエデンの園に住まわせました。
創造主である神は、人に命じていわれました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」 (創世記2:16,17)と。
ところが、人間はサタンの誘惑により誘われるままに、妻のエバと共に禁断の木の実を食べ、神の掟を破り神から離反しました。
そのためにアダムの子孫であるわれわれは、命の源である神からの恵みを受け取ることができなくなり、神とともに永遠に生きる存在であったのに、(霊が)死ぬべき者となりました。これを次のように聖書は表現しています。
「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ローマの信徒への手紙5:12)。
ですから、どんなに科学や医学が進歩しても、人間の本体である霊の「死」の問題を解決することは不可能なのです。
肉体の死は医学の進歩に依ってある程度の延命を望めるかもしれませんが、霊の「死」の問題の解決にはならないのです。
科学の力も、権力も、お金の力もその問題を解決することはできません。その解決の方法は、イエスの約束の言葉を信じるほかないと聖書には書いてあります。
イエスの十字架によってすでにすべての人類の罪は赦されて永遠の命への道は無条件で開かれているのですから、あとは人間が自分の意志で戸を開いてイエスを受け入れるだけなのです。
キリスト教とは、神に離反し死ぬべき運命となった人間の霊の命の回復というか救済物語といえます。そう言う意味で、人生は神を知るためにあるともいえます。
科学が神を求めるために生まれ進歩したのは事実です。苦難や苦痛があるのも神を知るためと思います。イエスは人間の本来あるべき姿を教えようとされています。
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