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2009年5月22日 (金)

十字架と救いについて(3)

「十字架と救いについて(2)」の続きです。
マタイによる福音書第27章46節によれば、イエスは十字架上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたとあります。

イエスが神の子であるならば、なぜこのような言葉が口から出るのでしょうか。この言葉は、神への人間の叫びです。矛盾します。

この叫びは、何を意味するかについては、解釈が分かれているということです。この言葉は、旧約聖書詩編22編の冒頭の言葉と同じですから、同22編を叫ぼうとされたという解釈があります。この詩篇が神への信頼と賛美で終わるからです。


しかし、そのような長い詩を十字架上で、想像を絶する苦しみの中で叫ぼうとされたのでしょうか。わたしはその解釈に長年疑問をもっていました。

ところが、ある本で読んだのですが、当時ユダヤでは詩篇の冒頭句をよみ全体を顕す慣習があったということです。

また、この詩の内容は、殉教者(人間)の叫びなら分かりますが神の子の叫びではないのです。それはどのように考えればよいのでしょうか。

今のわたしに一番納得できる解釈は、イエスは神の子でありながら、人間の代わり人間の罪を背負い、裁きを受け、贖いのための生贄になられたのだから、全人類に対する罪の裁きを、罪に沈む人間の魂のうめきを全面的に背負われる必要があるということです。

だから、イエスは現実に一時でも神から見捨てられたと思われたのではなかろうか。人間を愛するゆえに、神でありながら一時的に人間と一体になられたということです。

母親が不肖の息子を世間からかばうときに、自分も世間から責められているような気になるのはよくあることです。

そうであって初めて、全人類の罪を背負い、贖うと言う御業が実現するのではないでしょうか。

この叫びは、神からの離反により命の源である神の霊、聖霊を受けることができなくなり、罪に沈み、滅びの下にある人間をふくめ、生きとし生ける物の悲痛な魂の叫びをイエスが代わって叫んでおられるのだと思います。

それは、人間を罪の中から、裁きの定めの中から救いあげたいという強烈なイエスの愛の証だと思うのです。

といいましても、己がしてきたことの罪の重さが分からないわれわれには、イエスの壮絶な苦しみは所詮理解できないことでしょう。

イエスは十字架上で想像を絶する苦痛に耐えられました。しかし、肉体の苦痛を耐えることから来る叫びならイエスは特別だとは言えません。

一緒に十字架につけられた強盗二人も、また、歴史上多くの義人が十字架刑に処せられ同じ苦痛を味わっています。イエスの十字架もその中の一つにすぎないといえます。

イエスは十字架で死んだあと、復活されたから特別の意義を担うことになるのだと思います。

それは、イエスは神の子キリストであり、十字架が神の御業であることを証しているからです。そういう意味で、イエスが復活されなかったら今のキリスト教はありません。

神であり人間である、最も清く罪の無いこの人が、なぜこれほど苦しまなければならなかったのか。

太陽系の小さな星、地球にうごめいている人間という惨めな生き物の罪を贖うために、神は御子イエスを十字架にかけるという身代金をなぜ払う必要があったのか。その意味をいろいろ調べてみましたらいろいろ出て来ました。

第一に、イエスは人間に、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15章12節)という新しい掟を与えたので、その模範を示す必要があった。

第二に、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたはわたしの弟子である」(ヨハネ13章35節)。「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22章39節)。

「敵を愛し自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章44節)とも言われた。このことも証拠立てるべきであった。しかも、現在及び未来にわたり影響を及ぼせるような衝撃的な方法で。

そして、イエスの受難の意味は、一言でいえば、ヨハネの言葉にある、「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3章16節)に尽きるということです。

イエス昇天に代わりこの世に降った聖霊は、人々を信仰に導き、その者に十字架による死と復活が神の贖罪の御業であることを啓示し、キリストを信じる者に、またその集まりに神の愛を注ぎます。

つまりキリストを信じる者による御言葉による交わりの中に、聖霊は働かれます。そこには愛と平安が満ちることになる。それがキリスト教会です。

その聖霊は、ヨハネによる福音書第16章7節でイエスは、「わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。

わたしは去っていかなければ、弁護者(聖霊)はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなた方のところに送る。」

と十字架にかけられる前にわたしの代わりに遣わすと予告されたのです。そして、ヨハネによる福音書第16章13節で、「その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」と言われました。

ここであなたがたというのは、イエスを信じる者、イエスの弟子のことです。それはすべて実現したのです。今もその聖霊は働かれています。

そういうことで、キリスト教では聖霊の働きが重要なのです。聖霊の働きがなければ、十字架とは・復活とは・罪とは・愛とは・義とは・信仰とは、つまり聖書の言葉すべてについて、その真理が分からないということになります。

キリスト教は御言葉の宗教です。聖霊は御言葉に働かれるのです。御言葉とは聖書の言葉です。

キリスト教の教典である聖書は、神が人類に啓示された真理の書です。人類の歴史の背後に神のご計画と導きがあることを明確に証言しています。

そして、神が天地万物の創造主であること、また、神が目的をもって人間を創造されたこと、人類の始祖アダムが神に対して罪を犯した時以来、すべての人間は神の前に罪を犯し続けており、

人間は皆生まれながらの罪人であり、死後に神の裁きを受けなければならないということを記しています。同時に、その裁きを免れる方法をも示されています。

聖書は、裁きを免れる方法は、この地上に生きている間に、イエス・キリストを信じ受け入れることだと教えています。キリストを知らなくて死んだ人は、その人の行いにより裁くとなっていてそれ以上のことは明確ではありません。

行いの基準は、健康でもなく、若さでもなく、お金持ちでもなく、地位とか名誉でもないのはたしかです。わたしは神様が人間に与えた内なる法則である良心だと思っています。

「また、人間には、ただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ人への手紙第9章27節)。
「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠のいのちなのです。」(ローマの信徒への手紙第6章23節)。

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