十字架と救いについて(1)
クリスチャンでなくても誰でも知っている十字架について、今日は考えてみます。十字架はまぎれもなくキリスト教の象徴です。十字架の横線は天と地、すなわち神と人間の断絶を意味しています。
縦線は、イエス・キリストが神と人間の和解の為に上から下に、この世に来られたことを意味しています。
イエスは神の一人子であり、人間の罪を贖うために約2000年前にこの世にこられ、ユダヤ教指導者層とローマ帝国の属領ユダヤの統治者ポンテオ・ピラトはイエスを十字架上に処刑しました。これは信仰の有無に関係なく歴史的事実です。
イエスがなぜ神の子かというと、聖書には、イエスは十字架で亡くなられたあと、三日後に復活かれたと書いてあります。
このことが事実なら神の子といえます。死人を復活させることができるのは、創造主である神のみでありますから。
聖書に記載されたこのことを信じるかどうかですね。それを信じて読むか、信じようと決心して読まなければ、聖書はただの歴史書です。
十字架の意義は、マタイによる福音書第26章26節から28節の最後の晩餐で、イエスは我が身にこれからおこる十字架の出来事を象徴して、パンを裂き言われた。
「取って食べなさい。これはわたしの体である。」、また杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡していわれた。「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と
そうです、十字架は神と人間との新しい契約なのです。それは、イエス・キリストによる救いの契約です。
聖書でいう罪とは神から離反していることを言うのですが、人はみな、自覚しなくても、神への反逆という根元的な罪の中にあります。
エデンの園でのアダムとエバの神からの離反に始まりその子孫である人類全てがということです。
人間は、この罪の故に命の源泉である神から切り離されて、もともと永遠に生きることができる存在であったのに死ぬべき存在となりました。
なぜ死ぬべき存在になったかというと、神から離反することにより、神の霊、聖霊の働きからくる神の恵みを、人間は受けることができなくなったからだと思います。
しかし、人間は被造物ですから、自分の力ではこの罪から逃れて、神との交わりを回復し、神の恵みを受けることができません。それは、創造主である神にのみできることだからです。
神は御子イエスを人間と和解するためにこの地上に遣わし、彼の肉において人間の罪を罰し、彼の血において罪を贖ったのです。
そして、死から蘇るという復活において死に打ち勝ったのです。罪の根源であるサタンの完全な敗北です。それがイエスの十字架による死と死後の復活の意味です。
イエスの死により過去・現在・未来すべての人間の罪は贖われ(罪が無くなったわけではない)、そして、神はイエスを死から復活させることにより、イエスはキリスト(救い主)であることを最終的に証しされ、死ぬべき運命にあった人間の霊魂を永遠に生きるものとされました。
なお、わたしはこの永遠の命というのは、来世での復活を希望として、時間的に永遠ではなく神とともに生きる命ととらえています。
こうして、神の子イエスがサタンに完全に勝利されたので、この世の支配者はサタン(イエスがこの地上にこられるまでは、人間社会はサタンが支配下にありました。)から神が支配者になりました。
それは、神の御子イエスを信じる者が、もはや罪に支配されることなく、神との交わりを与えられ(これを義とされるという)、神の命と栄光を受け、永遠に生きる者となるためです。
イエスを信じることとは、聖書の言葉は神の言葉ですから聖書に書いてあることを信じることです。その中で最も重要なことは、イエスの十字架による死は、過去・現在・未来の全人類の罪を贖うための生贄であったこと。
イエスは三日後に復活されたこと。復活により、罪のために死ぬべき運命にあった人間に永遠の命を生きる、つまり、神とともに生きるために次の世で復活する希望が与えられたこと。これを事実だと信じることです。
信じるといわれてもどうすれば信じられるのですか、という問いを受けそうですが、それは、まず、信じてみようと決心する、そうすると聖霊が働かれて、それらのことを信じさせてくださる。
そうすれば、その者に十字架と復活の真理が見えてくるとしか言いようがありません。信仰は神の霊、聖霊の働きですから人間が信じようと思っても信じることはできないと思うのです。
そうですね、信じてみようと思ったらもうその人には聖霊が働いているのだと思います。
聖書には、イエスが語った御言葉(聖書の言葉)を信じ、心に抱き、いつもイエスから目を離さないでこの世を生きなさいと書いてあります。
そうすれば義とされる。現実の人間は罪人で、正しくはないのだけれどもただ恵みのゆえに正しい者とされるのです。こうして、神の恵みゆえに義とされたのがクリスチャンです。神への反逆という罪が赦されたとみなされるのです。
なぜこのような面倒くさいことを神はなされたかといいうますと、神は自分から離れていった放蕩息子である人間をふたたび自分のものとするために、聖霊をこの世に送り人間を自分とともに生きる存在とする、つまり人間改造といいますか、新生が目的だと思います。
強制的にされないのは、人間はあくまで自由意志をもつ存在であるからです。ロボットではありません。どうするかは、一人ひとりの自由意志にゆだねられます。
「十字架と救いについて(2)」に続きます。
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