フォト
2023年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

« 時について | トップページ | キリスト教は不寛容か(2) »

2009年5月 1日 (金)

キリスト教は不寛容か(1)

キリスト教の現在に至る歩みの中で、犯した誤りを調べてみました。それは大きく四回あるということです。簡単にまとめてみました。その原因は寛容と不寛容、あるいは正統と異端の問題と関わっているということです。

それはどのような状況かといいますと、キリスト教が確立していないとき、発展と衰退を繰り返す中で、ある時期に暫定的に要求された神学を別の状況の中で異端と断じる。
ところがまた暫くすると、先に異端とされた信仰が要求されるような状況が生じてくる。


そうすると、先に誤って異端とされていた神学や信仰が再び頭をもたげてくる。こうして異端は、権力の趨勢に合わせて定期的に繰り返されたということです。

このようなことがあるたびに、キリスト者がキリスト者を拷問にかけるとか斬首刑などで殺害する。魔女狩りとか、免罪符は典型的な事件でしょう。

もしそういうときに、キリスト教が、パウロのように互いの違いを認め合っていたらもっと早くキリスト教制度は確立し、迫害も戦争も防げたのかもしれません。

といいましても、ヨーロッパにおいてはローマ帝国時代に始まったキリスト教が国家権力と結びつき発展した状態、つまり、国家が国民をまとめる必要からキリスト教を利用したことは事実ですから、そういう事態は避けられなかったかも知れません。

今のアメリカでは政教分離が強く叫ばれているのは、その反省からと聞いていますが、二度と過ちを犯さないために善いことだと思います。

11世紀から13世紀にかけての十字軍遠征のとき、キリスト教はイスラムの世界と真っ向から衝突しました。

この十字軍は、イスラム圏の人に、キリスト教に対する激しい憎悪を残しました。この戦争は、戦争というより十字軍の狂気じみた虐殺と略奪だったということです。

アメリカにおける異教徒に対する不寛容は、黒人奴隷制度と中南米のインディオの大虐殺、それからアメリカインディアンに対する差別と攻撃だということです。

キリスト教は、彼らの伝統や文化や宗教を根こそぎ絶滅させようとしたのです。なお、最近になって、南米のカトリック教会が、この時代に教会の行なった政策は間違っていたと正式に認めたということです。

キリスト教以外の宗教を、その宗教的価値をまったく認めようとしない傾向は、今なお欧米の教会に根強く残っていると思います。

わたしたち日本のクリスチャンの間でもそのような考えを持った人がいます。教会がその様に教えているのですね。

わたしは何年か前に、外国から来られている宣教師さんと話をしていて、どうしても受け入れられない体験をしました。仏壇をすぐに捨てなさい、といわれるのです。

命令的で、絶対にという言い方です。その宣教師が、神道や
仏教などの日本古来の宗教を「異教」として厳しく否定したからです。

このことは、ある意味で、日本の文化の根底を否定することにつながります。いくらわたしでも、それには拒否反応をもっています。

わたしは、日本の伝統的な価値観にも神の導きがあったことを認めたいと思っています。それから以降、その宣教師さんの言われることが本当だろうかと疑問を抱きましたので、そのことがその後の聖書研究の大きな課題となりました。

キリスト教はなぜそんなに不寛容なのだろうか。けっして神はそのようなことを喜んでおられるのではないと思うのです。

互いに愛し合いなさい、隣人を自分を愛するように愛しなさい、と命令されているイエスが、人間がイエスの名のもとに人間を排除するとか迫害することを喜んでおられないと思います。

隣人を自分を愛するように愛する愛は敵をも愛する愛です。その愛には愛そうとする強い意志がいります。寛容がためされます。

聖書の神は、他の人間から出た宗教をむきになって排斥するほどちゃちな神ではないと思います。

むきになるということは、他の宗教を聖書の神と対等の神として扱っているということになります。それは神から出た宗教であるキリスト教の聖書の神への侮辱です。

たしかにキリスト教は真理で、絶対です。しかしそこに愛がないと不寛容になります。キリスト教が過ちを起こす時は、キリスト教の絶対性だけを表に出し愛を忘れている時だと思うのです。愛のない宗教は怖いです。

この世では、教えに絶対性を持つキリスト教でも一宗教ですから相対的です。だから愛が必要なのです。絶対性をあくまで追求するならば、相手を滅ぼすしかありません。この世では何事も相対的であり絶対的なものはなにもありません。

自己の立場のみを意識的にせよ無意識的にせよ絶対化すると、そこにキリストの愛がないと、自分とは異なる人達や異なる宗教に対する抑圧あるいは排除を生み出す不寛容へと走りがちになります。

特に民族とか国家とかがこれに絡んでくると、理屈抜きで感情的な不寛容に支配されがちです。

最後にそれらのことを端的にあらわした聖句をあげておきます。ルカによる福音書9章50節「イエスは言われた。やめさせてはならない。あなた方に逆らわない者は、あなた方の見方なのです。」

この聖句は、イエスのグループに属さない者のイエスの名前を使っての悪霊追い出し活動に対して弟子がやめさせようとしたときのイエスの言葉です。

自分たちのグループを絶対化しないキリストの民の姿です。
以下「キリスト教は不寛容か(2)」に続きます。

« 時について | トップページ | キリスト教は不寛容か(2) »

キリスト教とは」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: キリスト教は不寛容か(1):

« 時について | トップページ | キリスト教は不寛容か(2) »