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2009年5月 2日 (土)

キリスト教は不寛容か(2)

「キリスト教は不寛容か(1)」からの続きです。
最近アメリカのメソジストのクリスチャンと出会い、話をする機会がありました。

欧米のキリスト教は不寛容だと思っていたのですが、その方は、日本の仏教の葬式に列席するときには焼香もするということです。その国のしきたりも尊重するということです。アメリカ人のキリスト教徒でもいろいろな方がおられます。


超越した存在である真の意味での神は、人間側の一切の条件に左右されない神です。人種、性別、身分、国籍、宗教、こういう諸条件で人を偏ってみない神だと思います。愛の神、公平・公正な神であるというのはそういう意味だと思います。

神が超越した存在ならば、地上の人間の営み一切を超越しておられるはずです。だから、地上で営まれる人間の一切の宗教活動からも超越しておられるはずです。

わたしは仏教には、聖書の神のような創造神という生ける神の概念はないと思います。だから死んだ人、仏を敬うことが偶像礼拝に当たるのか疑問に思っています。

第一仏像とか墓石を前に拝む(礼拝ではない)とか神社にお参りに行くとかをしても、その人は願いをかなえてくださる神の存在を信じて、期待して拝んでおられるのでしょうか。

決してそのようなことはありません。仏教にも神道にも神の存在論がないのですからそのようなことは考えられません。

敬虔な気持ちで祈って(けっして礼拝されているは思いません。)おられるでしょうが、しっかりとした神信仰を持ってその上で仏像礼拝とか神社参拝をしているとは思えません。

どちらかといえば、文化というか習慣といえるのではないでしょうか。

それは聖書の生ける神を知らないからです。知りながら別の神を求めてそうしているのではないと思うのです。

イスラエルが偶像礼拝に走ったのは、聖書の神に何度も何度も導かれ、神はイスラエルの民にその力を示され、神を否定できない状況に置かれたにもかかわらず、それでも聖書の神を拒否し、異教の神を拝するから厳しく諌められたのだと思います。

人類救済の目的を達するために特別に選ばれた民です、異教の神に染まるのを特に恐れられたのだと思います。

偶像礼拝というのは、聖書の神を無視して別に木や石で偶像の神を造り、その神を聖書の神と同じ神のように考えて、聖書の神を排除して礼拝することだと思うのです。

そうであれば仏教のようにもともと神という概念がない宗教とか、神道のように神の存在論がない宗教の神は、実在されて働かれている聖書の創造神と同じ土俵で論じるのはおかしいと思うのです。

同じ神という言葉を使うから混乱しますが、内容はまったく違います。そもそも聖書の創造神を「神」という日本語をあてたのが間違いだと思います。そうですね、日本語で一番ふさわしい言葉は「創造主」だと思います。

仏教徒とか神道の信者は、聖書の神を否定しているのではなくて、聖書の神を知らないだけなのだと思います。だからキリスト教がそういう宗教を迫害するとか排除するのはサタンの策略に乗っていると思うのです。

仏教徒にしてもキリストを知らなくても神の愛、慈悲の愛をもった方が多くおられます。そのような方が真のキリストに触れれば決してキリストを拒否されないと思います。

もし、その方が聖書の神を信じるときがきたら、次の聖句が実現するのではないでしょうか。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(マタイによる福音書第19章30節)。

パウロもこう言っています。「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召された時の身分のままで歩みなさい。・・大切なのは神の掟を守ることです。」(コリント信徒への手紙第一 7章17節)。

この聖句は、クリスチャンになったということで、今までの習慣とか、自分が置かれている外側の状況をあえて変える必要はない、ということだと思います。

もちろん罪に関する事柄に関わっているのであれば、即座に変えなければいけませんが。

わたくし自身は仏教の葬式の場合数珠の所持と焼香だけはクリスチャンであるのを明確にするために遠慮させてもらっています。

あまりに節操がないのも困りますからね。もちろん仏壇は処分していません。死者を敬う気持ちはクリスチャンも仏教徒も同じですからね。

最後に、マザーテレサは、主イエス・キリストの父なる神を信じていました。それでも、あらゆる宗教の人たちをそれぞれの宗教でその最後を全うさせるようにとりはからったのです。

これは、マザーに内住するイエス・キリストのみ霊、聖霊からくるキリストの慈愛がそうさせたのだと思います。

だからこそ、マザーが召天したときに、ヒンズー教の国インドが、彼女のために国葬を行ったということです。もちろん、マザーは心の中でイエス・キリストの御名で死者の平安と祝福を祈っていたと思います。

これがイエスのいわれる愛の本当の姿だと思います。

最後に、最近ですけれども、今をときめく日本の政治家が高野山の坊さんとの対話で、「キリスト教は排他的だ」と言われたと新聞に書いてありました。

それを読みわたしはふと思いました、なぜ、唯一の神を信じるのが排他的なのだろうかと。キリスト教において、アガペーの愛がいかに重要な位置を占めるか御存じないのですね。

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