続.苦難の意味
「苦難の意味」の続編を書きます。
自由意志とは間違ったこともできるし正しいこともできるということですが、神は人間をそのように自由意志を持った存在に造られたのです。
悪を行う自由があれば善をおこなう自由もあるのです。動物は自然本能的に生きるだけで自由はないと思います。
それではなぜ神は人間に自由意志を与えたのか、その理由はおそらく、つまり自由意志は悪を行うことができるが、それはまた愛や善や喜びを知ることを可能にする唯一の方法だからといえます。
人間を機械のようなロボットに創造するなら創造するに値しないであろうと思います。
だから何が不幸か、何が幸福かを、あるいは何が悪で何が善で知るためにはどうしても自由でなければならないと言えます。
そうすることによって苦難は、害悪は人間を霊的に成長させるといえます。そのように考えると苦難とか害悪は払うに値するものだと言えます。
可愛いい子には旅をさせろという諺がありますが、創造主である神様は、人間を創造した目的を達成するために訓練される。
辛いとき、悲しいとき、やるせないときは神様から試練を受けていると理解しなさいと聖書には書いてあります。
そして、その経験はすべて益としてくださる、と書いてあります。益とするとは、そのような苦難をその人のために活用してくださるということです。
何事も無駄にはなさらない。過去を振り返ってみて、あの苦難があったから今があるという経験はだれでもあると思うのですが、いかがでしょうか。
イエスの使徒パウロは言いました。「苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。
苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを・・神様の愛が私たちに注がれているhttp://nikkan-spa.jp/?attachment_id=1239339からです。」新約聖書ローマの信徒への手紙第5章3節。
試練と言うのは、神から愛されている証拠、だから、神は人間を試練に合わせられるが、試練から脱出できる道も必ず備えて下さっている。
また、どんな試練も人が経験したことがない試練は一つもない、あなただけが特別ではないとも聖書には書いてあるのです。
わたしたちは、あなただけが特別ではないといわれても、苦しいときは概して自分の苦しみしか見えなくなってしまうので、世界中で苦しいのは自分だけだと思い込み他人を顧みる余裕すらなくなってしまうものです。
「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れの道をも備えてくださいます」新約聖書コリント信徒への手紙第一 第10章13節。
およそ試練というものは、どのようなものでも、渦中にいるときは喜ばしいもではなく、辛く悲しいものと思われるのですが、その試練に耐えたときは、その人に、義(神に正しいとみなされること。
罪からの救いと永遠の命が与えられる)と、平安という実が与えられる、とも書いてあります。
もちろん、この平安は神から来るものですから、周囲の状況に惑わせられない心の平安です。そうでない平安は、周囲の状況に一喜一憂、つかの間の平安であることが多いと思います。
聖書の世界では、神様に用いられた人ほど試練を受けています。もちろん、試練には意味目的があります。それに訓練ですから何時まででも続きません。
いつかは終わるのです。それに信仰を持って耐え抜いた人は、神に祝福され希望という祝福を得るのです。この希望というのも神様からの祝福ですから、周囲の状況には一切惑わされません。
その神様を信じる信仰を持てば、世の中何とかなる。神様が何とかしてくださるという気楽さ、主(神)にある気楽さが持てるのではないでしょうか。
創造主である神様が創造した目的を達成するために人間を訓練される。どのような目的かは分からないけれども、分からないことは創造主である神様に任せて置けばよい。
ただ聖書には、神様の人間に対する御心は、神様を愛し、隣人を自分のように愛して人生を送ることを望んでおられます。
創造主である神様は人間を愛されているのだから、悪いようにはなさらない。
あまりにも辛くて、死にたくなったとき、そのような方がこの世を、この苦難を支配しておられているのだから、何とかしてくださると開き直るといいますか、その方にすべてを委ねることができれば、少しは気持ちも楽になるかもしれません。
朝が来ない夜はないといいますが、そのように信じて生きるのも、神様の創造の御業に沿っていると思うのです。試練によるストレスは体をむしばみ、寿命を短くします。
それは神様の御心ではないと思います。
日常の生活の中で起こる様々な悩みや試練は、主に助けを呼び求めていくときに、主は必ずそこから救い出してくださる。
そして、助けてくださいと祈れば、今は具体的な解決策が無くても、きっと答えてくださるという確信と平安がいただける。だからどのような状態にあっても、希望を持って生きていける。
人間なんて、どんなに強がりを言っても弱いものです。そのことを自覚して生きると人生本当に楽になります。
そのような気持ちで、クリスチャンは毎日を送っています。絶対者の存在を信じる信仰の強さです。仏教は自力本願、キリスト教は他力本願ということですね。
最後によく聞かれるのですが、戦争とか飢饉のために生れてすぐに死んで行く子供がいるけれどもその子供の人生にはどのような意味があるのかということです。
わたくしには確かなところは分かりません。ただ言えることは、来世があるからそのような子供たちが生まれてきたことに意味がある。
ドアの向こうには別の世界があるからこの世のどのようなみじめな人生にも意味があると言えると思います。
来世がなければ、この世がすべてならこの世の苦難に何の意味があるのでしょうか。そうであるなら、生れ育った環境に、能力に、健康に恵まれた人たちだけの人生になってしまいます。
恵まれた者だけが生き残る弱肉強食の世界になってしまいます。もちろん、そのような世界には神はいりません。傲慢であることが正義となる世界です。
苦難の中に沈む人たちは、強者のために生きているのでしょうか。そうではないと思います。創造主である神様がおられるなら、かならずやいずれ正義がなされると信じます。
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