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2009年4月 2日 (木)

キリスト教の伝道(2)

キリスト教の伝道(1)からの続きです。
人間の罪の贖いのために十字架に架けられ死に、復活し、四十日間弟子たちの前に現われて天にのぼり、助け主であるイエスの復活の御霊、聖霊が弟子に降ることによって、はじめて弟子はイエスが生前に語られた教えの真理を理解できました。

イエスの死からの復活を体験して迫害にも負けずに伝道する力を得たのだと思います。

古代教会の伝道は、イエスの教えの言葉というよりも、イエスの十字架死と、復活が主であったと思います。それほどイエスの復活というものが当時の弟子たちに強烈であったのだと思います。

もちろん、このときには、まだ新約聖書はできていません。

生前にイエスが語られたいろいろな教えは、そのときのための準備でした。弟子がその教えの真理を理解していようがいまいがイエスは教えられたのです。

だからイエスの十字架による死と、イエスの復活と聖霊の降臨がなければキリスト教は無かったと思います。教えだけなら、キリスト教は道徳教となり既に消えていたと思います。

驚くべきことに、イエスはそれらの出来事を生前に予告されてもいました。

ということは、キリスト教の伝播は、第一義的には、イエスの教えではなく、その行い(十字架による死と復活)を通して働きかけられたということです。

そして、地上にいたイエスの最も偉大な行いはそれで終りました。またそれがすべてでした。これが最も重要な点であると思います。

そして、この行為についての知識が世間に広まり始めたとき、イエスはもはや物理的にはこの世に存在していません。ここからキリスト教の伝播が始まりました。

これが他の偉大な宗教創始者たちとの根本的な違いであると思います。

キリスト教の教えのすべては聖書に記されています。またその教えのある部分は、特に道徳に通じる箇所については他の宗教の教えの中にも見いだすことができます。

さて、キリスト教を広めるために最も多くの功績を残した使徒パウロという人物は、その教えに頼ったのでしょうか。

彼がイエスを信じる者にたいする迫害者からイエスの弟子に変えられたのは、イエスの教えを聞いたからでありましょうか。

そうではなく、彼は、イエスが十字架で死んだ後しばらくしてから、復活のイエスと出会い、今でもイエスは「生きている」という霊的体験、彼自身が個人的な神秘体験をし、確信を持ちました。

その瞬間、信仰を持ちイエスの弟子に変えられたのです。そうです、生前のイエスでなく復活のイエスとのパウロの出会いこそ、わたしたちがイエスと出会う体験をはじめにした人なのです。

イエスの教えを真に理解するためには、まず自由意志で自発的にキリストを信じようとまず決断しなければならないと思います。

そして、聖霊の力を借りなければなりません。イエスの教えは、最初からはなかなか信じられないし分からないのは当たり前だと思います。それほどその教えは想像を絶する内容なのです。

自発的に自らイエス・キリストを信じようと決心した結果として、その人自らの内に聖霊が入り、単なる教えが神的力を得て、真理として理解でき、信じることができるようになる。

自由意志を持ってイエス・キリストを受け入れることを決断しない人は、誰もイエスの御言葉を理解できないし、受け入れることができない。聖霊はそのような人には働かれません。

このようなことが、人間にとって可能になったのはイエス・キリストが地上で人間となり、十字架にかけられ死に、復活し、天に上られその代わりに助け主聖霊がこの世に降ったからだといえます。

聖霊は、今でもこの地球上に偏在されています。そのうちどれが欠けてもキリスト教はなかったといえます。

それら一つ一つの出来事は、信じられない不思議な出来事ですが、歴史上事実として、いや否定できない事実とされています。

また、神はキリスト教を広めるために、伝道という誠に人間的な方法を取られたのもその必要があってのことだと思います。

伝道と言う行為は、罪を犯した人間の責任であり努めだといえます。

なぜなら、人間は、自分の意志で神から離れて罪人となったのですから、人間は、まず自ずから神に救いを求めるべきであり、その努力は人間が自ずからするべきであるということです。

神は、まず人間が自分の方を向かなければ、きっと人間を罪から救いに導くことができないのであろうと思います。

それは神が人間に信仰を要求なさった理由も同様であると思います。だから神は人間に、強制的に自分のほうを向くように、あるいは信仰を決して強制されません。

これについては、内村鑑三先生の言葉に適切なものがあります。「神は己に関する人の詮索を恐れて彼から信仰を要求なさるのではない。

至誠なる彼は人が至誠をもって彼に近づくのでなければ、その人を恵むことができないからである。神と人との関係は父と子の関係である。

そして父子の関係は世のいわゆる研究的態度ではない。愛を基盤にした相互的信頼である。

すなわち、子の側からは父に対する信仰である。懐疑という他人行儀をもって己に対する子に対しては、父は教えようとしても教えることができない。恵もうとしても恵むことができない」。

創造主が人間を造るとき、人間がテレビを造るのと同じようにその意味と目的を持って造られました。

人間が自分の子供を愛するように、創造主が被造物である人間を愛するには当たり前で、放蕩三昧の人間に、自分の方を向いて教えた通りの人生を歩んでほしいと思うのは当たり前だと思います。

創造主である神が、人間の歴史に関与され、人間を、犯した罪から何とか救おうと思われるのも当たり前だと思います。

まさにイエスは神と一体となった最初の人間でありましたが、イエスを信じる信徒もイエスと一体となる事により神と一体となりました。

その三者をつなぐものが御言葉の共有ということになります。御言葉は聖霊が働かれる場であり媒体です。

ここに初めて父と子の愛を基盤にした相互信頼関係が生まれ、父なる神の力の業がイエスおよび弟子の行う奇跡となりしるしとなります。

これがキリスト教であります。凄い宗教です、いや宗教ではなくて、この世の真理でしょうか。 


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