苦難の意味
今まで歩いてきた道を振り返って見て、心からうきうきしたこと、生まれてきてよかったと思ったことはどのくらいあっただろうか、すぐには思い浮かびません。
それと反対に、悲しいとき、悔しいとき、辛いときのほうがはるかに多かったように思います。
それでも、どんなに辛いことがあっても時間がたてば、思い出となってしまう。どんなに辛いことでも過去のこととなれば痛みは薄らぎます。
時間は、辛くて、悲しくて打ちひしがれた心を癒してくれます。時間は神様が下さった最高の癒しです。
もし、人間が悲しくて、辛い体験を忘れることができないとしたら、おそらく生きてはいけないでしょう。
それにもうひとつ、人間は希望に生きる動物といえるのではないでしょうか。人間はどのような状態にあっても希望があれば生きていける。
どんなにささやかな希望でもそれにすがって生きている人はこの世にはいくらでもおられます。
うまくできたもので、絶望の淵に沈んでも、時間がたてば絶望に押しつぶされていた心に、不思議に希望のともし火が頭を持ち上げてくる。
その希望がはかないものであっても、少しでも希望があればすがりつき生きようとする。それが人間だと思いませんか。
キリストを知らない時のわたしは、ただ目の前の出来事に心を奪われて右往左往するだけでした。
自分を守ることで精一杯で、負けたくないという気持ちが支配していました。それは自分のプライドを満足させることにのみ精力を使い果たす人生でした。
男は社会へ出て他人の中でもまれて成長する、女は子供を育てながら子供の成長と共に自分も成長するとよく言われます。
最近は女も社会へ出る人が多くなったので一概には言いきれませんが、このように人間は人とかかわることによって成長するといえます。
人間は、動物と違って一人前になるのには本当に長い時間を要します。20歳で成人となっていますが、個人差が大きいと思います。
成人を自立という面からみると、おそい人など30歳を超えても自立できていない人もいます。
人の一生は生れてから死ぬまでこれ一つ、人間は生涯をかけて成長するものだと思います。
四十を過ぎたら自分の顔に責任を持てとか、大人になったとか、成熟したとか、人間ができているとか、人格者とか、人の成長をみるいろいろな言い方があります。
これはそのように人生をとらえることで、人は無意識に自分の人生に意味を見出そうとしているからではないでしょうか。
人は何事にも意味を見出そうとするのが好きなようです。それは生命の姿、生きていることの証だからでしょうね。
人間は何者で、どこから来てどこへ行くのか、生きる意味も含めて、誰もそのことには答えられません。
それでも人は不思議に己の人生に意味を見出そうとします。本当に人生に意味を見いだせるかどうかは別にして、人生に意味があると信じて、いや信じようとしているから生きていられるのかもしれません。
それが果てしなく続く努力であってもです。
一時でも自分の人生に全く希望を失い、生きることに意味を見いだせなくなったら目的を失った難破船みたいに放浪の末孤独の内に死を選ぶこともある。
わたしなど、死ぬ時にも次の世に希望を持って死んでいきたいと望んでいます。
人間は何のために存在しているのだろうか。人生に意味目的はあるのだろうか。人はどこから来てどこへ行くのだろうか。
人生は意味目的のない単なる混沌だとしたら、人間は偶然の産物だとしたら、人間は余りにもうまくできすぎています。
たとえば、なぜ人間は古代から神様の存在を認め崇めるのでしょうか。教えられてもいないことは思いもつかないことで分からないはずです。
それに善いことをしたいという気持ちが強いのにどうしてもその気持ちに逆らって悪いことをしてしまうのか。
もし、創造主がおられるなら、被造物であるわれわれの人生には意味目的があることになります。創造者が人間を創造することのできる知能がある神ならば、造る目的がなくて創造するようなことはあり得ません。
そのように考えると、苦難の多い人生も造られた目的の内で、また生命も成長するものととらえれば、人生の苦難も試練ととらえて忍耐することにきっと意味があるのでしょう。
創造主の存在を信じることができたら、生きることに希望が生まれてくる。この世の出来事のすべてが意味を持ってくると思います。希望が生まれれば苦難に耐える力が出てきます。これは真理です。
楽しいことがわずかなのは、人生は試練にあうことが目的で、楽しいことは人が人生をあきらめない程度に置かれているからではと考えたくもなります。
そのように考えるのは、この宇宙も人間も創造されたもので、この宇宙と人間を創造された創造主がおられて、この世を、人生を支配されていると考えるからです。
この世のことがすべて創造主の支配のもとにあるのならば、辛いことが多い人生だけれど、出来事のすべてに意味目的が、混沌の中に秩序があると思えるようになります。
それを探して人生をさ迷い歩く人も沢山います。まことに人間らしい生き方だと思いませんか。
「千里の道も一歩から」という諺がありますが、創造主を求めて生きる信仰の道もそのようなものではないでしょうか。
神を求める信仰の道も、一歩一歩足を踏みしめて確実に歩いて行く。そして、この世を去る時までに少しでも神様に触れることができたら幸せです。なぜなら、そこに希望があるからです。
聖書には、そのような創造主である神様が存在してこの世に関与されていることが書かれています。
この世の苦難は、創造主である神様がわたしたちを愛しておられるから、試練であり忍耐を養うためだと書いてあります。
といっても、この世の苦難の原因は、なにも創造主がわざわざ関与されて起こっているのではなく、よく考えると苦難のほとんどが人間関係が原因だと思います。
人間が神の内なる呼びかけである良心をもち、どうすればよいかが分かっているのに実際はそのようにしないという罪が原因です。
それは神様の意志をも無視できる自由意志を持っているからといえます。良心に背いたことをするか、良心に沿ったことをするかの選択権はあくまで人間にあるのです。
その選択が間違っているところからこの世の苦難のほとんどが生まれると思います。もちろん、神様はそのようなことは先刻すべてご存知ですが。
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