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2009年4月 1日 (水)

キリスト教の伝道(1)

キリスト教の伝道とは、ほかの新興宗教のように自分の主張を世に知らせるために、いわゆる教祖と言われる人の人徳とかカリクマ性などをもって人を変え、大きな影響を与え、それによって信徒をつくるということではありません。

キリスト教の伝道とは、救い主イエス・キリストとの出会いの喜びの体験を世に証することなのです。

イエス・キリストとの出会いとは、イエスの約束の言葉、すなわち聖書の言葉を信じ、聖霊を受け入れることなのです。この聖霊の働きが欠かせないのです。

聖霊は目には見えませんが、外国であれ日本であれ殉教したキリスト教徒の歴史を調べると聖霊が存在し働かれていることを認めずには理解できません。

つまり他の宗教は人間が主役ですがキリスト教は聖霊が主役なのです。聖霊はイエスの意志を引き継いでイエスの約束の言葉を広めるために今も働かれているのです。

神の前に自分が罪びとであることを認めて、その罪がイエスの十字架上の死で贖われたこと、三日後に復活したこと、その復活はイエスが神の子であること、

イエスが死に打ち勝ったことを現し、それはイエスに倣う者を次の世で復活させてくださることの約束であるということを信じることなのです。これらのことを証するために聖書があるのです。

キリスト教の伝道は、その救い主イエスの言行が真理であることを知った喜びの体験を世に紹介し、それによって、イエスの信者・弟子を作ることなのです。

つまり伝道という行為は、自分の主張の表明ではなく、神から受けた恵みを、真理を知った喜びを体験し、体験した喜びを表白せざるを得なくなる、皆に同じ恵みを、

また、真理を知って欲しいと思う心の底からこみ上げる欲求、その結果としての行為ということなのです。だから、宣教師は、どのような患難辛苦があろうとも必要なところへ命をかけて突き進んでいくのです。

クリスチャンは自分の罪が赦されたこと、イエスに出会い恵みを受けた喜びを証するのです。だから教会ではクリスチャンの救われた体験の証しが大事にされます。

わたしなど、自分の罪を本当の意味で知るまでに十年もかかりました。イエスとの出会いの喜びとかイエスの言葉が真理かもという強い思いは洗礼を受ける前に与えられました。

その出会いが余りに強烈だったので十年以上もたった現在の聖書研究とかブログ投稿につながっているのです。

洗礼を受けてから信仰を持つのに十年もかかったという人もいます。聖書に疑問をもち研究を始めたが捉われてしまって信仰を持ったという人もいます。

信仰を持つというのは、こうあらねばならないというものではないと思うのです。信仰に入るのに色々な形があっても良いと思います。

神様がその人にとって最善の出会いのときを用意して下さっていると信じるのも信仰です。イエスのことをもっと知りたいと思った時、既に信仰生活の入り口に立っているのだと思います。

イエスの言葉が信頼できると思い、信じていこう、イエスの教えを守ろうと決心しても、人間はこの世に生きている限り自己中心的な性質から逃れるわけではなく、名誉とか権力とか財産などこの世で価値ある物の誘惑から免れえません。

それに肉体を持つゆえの弱さからも免れられません。人間は今のような世の中で、それらの影響を排除してイエスの教えを守っていけるほど強くはありません。

雑念は仏教では修業をして、自分の肉体をいじめて克服すると聞いていますが、本性が自己中心的という罪を持つ人間にはそのようなことでは克服できないと思います。

信仰生活は、山あり谷ありと聞きます。そう言う意味では、信仰は生涯をかけて育むものなのだと思います。そのスピードも人それぞれです。

若い時にイエスを信じ信仰を持ち世間のことに惑わされ一時的に信仰生活から遠ざかっても再びイエスの戻ってきた人など沢山います。わたしは、この世を去る間際に確信を持てれば十分だと思っています。

伝道する人は、イエスの御言葉を伝えるだけで決して信仰を強制しません。イエスの御言葉(聖書の言葉)を伝えるだけなのです。

その伝えたイエスの御言葉を受け入れるか否かはその人次第、あくまで個人の自由意志だということです。

その人がいったん自由意志でイエスの御言葉を信じようと決心したら、あとは神の霊、聖霊が働いてその人を信仰に導いてくださるということです。

次にキリスト教がどのように広まったか、布教の面から見てみますと、イエス自身はキリスト教の布教において、生涯何も為されませんでした。

反対にキリスト教以外の古代の宗教創始者たちは偉大な人類の教師たちであるといえます。

彼らはある特定の瞬間から自分が何らかの方法で悟った教えを伝え始め、そして、彼らの教師としての教えは大きな力をもって人類に働きかけました。

最初は教祖という人間が、あとはその教えをもって弟子が働きかけました。教えは道徳的であり、時代により変わることもありました。仏教のように哲学のようにもなりました。

ところが、キリスト教は、イエスも最初は弟子に教えを語られましたが、そのとき弟子は誰もその教えの真理を理解できませんでした。

その教えの内容が余りにも想像を絶する内容であったからです。イエスのなされた奇跡もそのときは大衆に大きな影響を与えましたが長くは続きませんでした。

三年間の公生涯の後イエスは時の権力者から恐れられて十字架に架けられて死にました。政治活動をしたとか、軍隊を率いて政府の転覆を謀ったとかそのようなことはなにもされていないのに時の権力者はイエスを恐れたのです。

イエスと面会したローマ帝国のイスラエルの統治者ピラトは、「いきなり私の足は何か重いものによって大理石の床に張り付けられたように全然動けなくなってしまったのです。

そのナザレの青年はただだまって立っていたのですが、私はまるで刑事犯のように手足が震えたのです。」という言葉を残しています。キリスト教の伝道(2)に続きます。

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