孤独について
孤独の格言を並べてみました。孤独の受け取り方は人それぞれ、わたしなど何事も前向きにとらえるのが好きですから、“アン・シャノン・モンロー”の格言が好きです。
「人はだれしも、自分自身の生涯を一人で生き、自分自身の死を一人で死ぬものです」(ヤコブセン)。だから、「生き物は全て孤独である。そして人間は自らが孤独であることを最も良く知る者である。」(E.アラン)。これなどごもっともというところです。
所詮人は孤独な存在、孤独を感じたことのない人間はいないと思います。孤独は人間に与えられた正常な心理の一つだと考えます。
孤独に相対する行動は、群れると云うことになると思います。群れるという行動も、動物本能の一つだと思います。そうそう群れているときでも孤独は存在します。
孤独を感じるから群れるのかもしれません。その人の心の置かれた状態により孤独を感じたり感じなかったりもします。
ところが、人々の中には、孤独に親しんだり、孤独を望んだりする人がいます。
たとえば、孤独を優等生的に回答すれば、「孤独とは、港を離れ、海を漂うような寂しさではない。本当の自己を知り、この美しい地球上に存在している間に、自分たちが何をしようとしているのか、どこに向かおうとしているのを知るためのよい機会なのだ」(アン・シャノン・モンロー)。
モンローに従えば、孤独は自己をよりよく見つめさせ、人生をより深めさせるという人格形成のための必要な機会と捉えています。
また、孤独を、死が苦しいかどうかは別にして、死に等しい苦しみととらえる人もいます。
「孤独はこの世で一番恐ろしい苦しみだ。
どんなに激しい恐怖も、みんながいっしょなら耐えられるが、孤独は死に等しい。」(ゲオルギウ)と、この格言は、死を絶望ととらえ孤独が恐ろしく苦しいものとしています。
先行きに絶望が待っているなら孤独はたしかに恐ろしいけれども、希望があれば孤独もまた楽しからずや、と思うのですが。
また、「孤独の生活の目的とは、もっとゆうゆうと、もっと気ままに暮らすというただ一つであると私は信ずる」(モンテーニュ)と、孤独の楽しみを説く人もいます。きっと絶望を伴わない孤独なのでしょうね。
どちらにしても、「孤独はいいものだということを我々は認めざるを得ない。しかし、孤独はいいものだと話し合うことの出来る相手を持つことは一つの喜びである」(バルザック)。
これなど、孤独を深く味わうことのできる友人とのおしゃべりは、より楽しく喜ばしいものだといっています。ちょっとわたしには理解できない。
最後に、三木清の格言で、「孤独が恐ろしいのは孤独そのもののためでなく、むしろ孤独の条件によってである」は、彼らの孤独に対するいろいろな捉えかたを説明できるのかもしれません。
或る若い女性が言いました。寂しいのは、必要とされない、幸福を与えられない、愛されている実感がないからです、と。
だから人は満たされぬ孤独を満たそうとして一時の楽しみを求めて恋愛に走る。
そして、破綻してより深い孤独を味わう。
そして、また恋愛を求める。たとえそれが擬似恋愛であってもです。
ただいえることは、恋愛はあくまで孤独を誤魔化しているだけ。だから恋愛をしていても孤独になることはあります。
もちろん、恋愛以外にも孤独を誤魔化す方法はあります。
例えば酒とか薬とか色々な遊び・・・。しかしこれなども冷めた後の心のむなしさは格別です。所詮人間は孤独な生き物とあきらめて、誤魔化すよりも上手な付き合い方を覚えるほうが良いのではないでしょうか。
人間、年をとると、何処までいっても孤独だと言うことを何となく悟るものですが、ときどきその真理を認めず生涯ごまかしに明け暮れている人もいます。
そういう例外は別にして、そうですね平凡な家庭を築くのが一般市民にとって一番良いのではないでしょうか。
夫婦のこと、子供のこと、会社のことを考えていたら孤独なんて吹き飛ぶと思います。その上でイエス・キリストを信じて次の世に希望をもてればもう言うことなし。
最後にイエス・キリストの孤独を見てみましょう。イエスは十字架上にあって、時刻は午後の3時頃であった。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(新約聖書マルコによる福音書第15章34節)と頭を上げて突然大声で叫ばれました。
その意味は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」であります。これは悲痛な叫びです。この言葉を文字通りに取れば、イエスは、信じていた神に見捨てられた自分を知り、愕然として死んでいったことになります。
言葉の表面的な意味はそうであるが、聖書学者の間では、このイエスの言葉を、神を賛美した言葉だと言われています。それは、旧約聖書詩編二十二編の冒頭の句を読まれたということです。
この詩編二十二編は、最後に神を賛美する言葉で終っているのです。ルカによる福音書は、イエスの最後の言葉を、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」であったとしている。
どちらにしても、これらの言葉の意味するところは、イエスは神を「アッバ、父よ」と呼んで、いつも子としての親しい交わりの中におられた。
そのイエスが生涯の最後において、神から見捨てられて死なれる。この時、イエスははじめて「父よ」ではなく「わが神」と叫ばれる。
イエスがわが神といわれるのはここのみです。ここにイエスの人性が現れている。そうでないとこのような言葉はありません。
神の子であるのに神に見捨てられるところに、イエスの激しい苦しみがあります。イエスは神に見捨てられるという形で、神の子の死を人間として孤独の内に死なれたのだと思います。
イエスは、全人類の罪を贖うために、いったん完全に人間になられ、人間として、罪の重さを、その苦しみを、一身に背負われたということだと思います。
人間になり人間として孤独と絶望の中で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」の言葉を発し、最後にすべてを神に委ねて、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(新約聖書ルカによる福音書第23章46節)と祈られて希望をもって死んでいかれたということではなかろうか。
十字架上でイエスは悲痛な叫びを発します。そのとき、イエスの身辺には、弟子達もいなかった。イエスは弟子達に裏切られ見捨てられ、孤独の内に死んでいかれた。
もちろん、十字架上の死でこの物語は終らず、このあと三日目に、預言通りに復活され神の子であることを証明され、キリスト(救い主)となられたのです。
それは十字架上で語られたこの言葉「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」(新約聖書ルカによる福音書第23章34節)が、つまり罪の贖いが成就したことをあらわしているのです。
この言葉は、まさしく神の子の言葉です。敵を、逃げた弟子を、そして、すべての人の罪を赦せるのは神の子だけです。
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