聖書と神道
聖書はキリスト教の聖典です。神道に聖典があるかどうかは知りません。多分ないのだろうと思います。
キリスト教の聖典である聖書の言葉(聖句)は、読む人のありようで、本来、様々に解釈できます。
その解釈の一つを統一してまとめたものが教理(宗教で真理とする理論のこと)であると思います。
そもそも、解釈が必要なのは、そこで教えられていることに、人が神秘に感じる事柄を説明しようとする理屈(存在論=存在そのもの、またはその根本的な問題を研究する学問のこと)があるからだと思います。
それがなかったら、解釈そのものが出てこないし、教理もないと思います。
神道のことは、外見から見たことしか知りませんが、神道が神といっているのは、存在論をもった、万物を創造した絶対者である神ではないと思います。
神秘なものに対して、あるいは著名な人間を神としてただ恐れ敬い礼拝するだけの宗教のように見えます。
いろいろ難しいことをいっているが、何を対象に礼拝するのかよく分かりません。ただ見えるのは礼拝する儀式、作法だけのように思います。
神道に、聖典がないとすれば、神を、神秘を説明する存在論はあるのだろうか、ないと思います。ここに聖書文化をもつ欧米人と、神道文化をもつ日本人の神とか神秘に対する意識構造に違いがあるように思います。
聖書の中身は、存在論そのものです。旧約を含めると3000年以上前から1人でなく多数の人が、立場、目的、時間とか場所が違うところで、少なくとも当人は聖霊の助けを認識して書いたものをまとめたものということです。
書かれたものは、体系的で、論理的で伝えていることが首尾一貫していますが、表面は矛盾がいっぱいで、字面だけを追っていてはとても理解できないところも大いにあります。
そのようなところは、一つの解釈をすることの困難な部分です。その部分の正解は、聖霊の助けによってその真理が見えるようになる、ということだとおもいます。
聖書を読んでいて何かの拍子に、あ、そうか、そういうことか、これはすごい、と思うときがあるのです。御言葉が心に飛び込んでくる時もあるのです。
そのような現象が聖霊の働きということでしょう。インスピレーシヨンを辞書で引けば霊感と書いてあります。
宗教とは、人間が生きていく過程で不思議に思うことに、あるいは神というか神秘に対してとるべき姿勢であると思います。
神とか神秘なるものを求める心は、誰でもが、それこそ教えられたこともないのに人間が本能的に生れながら持っている、人間の心の奥底から発する問いであると思います。
これは人間が動物と違うところで、動物は本能(生存欲と食欲ですか。)でその時その時を生きているように思いますが、人間は永遠を思う(来世を想う、未知の世界を思う)ように造られているから、そこからくる無意識の問いと言うのでしょうか。
この永遠を思う問いに答えたのが、神とか神秘なものがどんなものか、ということを理屈で答えている聖書だと思います。
聖書では、人間の永遠を思う無意識の問いに対して、神とは、神秘とはこのようなもの、こうなっている、という存在論でもって答え書かれているので、
聖書を読む人は、神とか、神秘のあり方を大胆に論理的に科学していくという方向に意識を導かれていくと思うのです。
神秘なことに興味をもち知りたくなるのは、人間の本性でもありますから、こうした科学の意識は、聖書をより所とする西欧に於いて自然に成長していったのだと思います。
人が、神とか神秘に感じる事柄を説明しようとする理屈を含まない教えは、そうはならなくて、神秘に対する恐れを感じた段階でただ恐れるだけで何も考えない。
理屈がないから科学する心もない。日本も含む東洋で近代科学がほとんど生まれなかったのは、そういう理由であるといわれています。
そういう教えに帰依していると、存在論がなく教理もないのですから、どうやって神を、神秘を論理的に認識するのでしょうか。
ただ黙って、神秘を神だと思って恐れ敬い拝するのみとなります。いわゆる儀式が中心になるわけです。
確かに、樹木が生い茂るところで、神秘を思う心はすがすがしいものがあります。そういう心も大切にすべきだと思います。
しかし、そこにはキリスト教で言う、創造の神とか、神の霊、聖霊の働きとか、生ける神の認識は何処にもありません。
神道でいう神は、万物の創造者ではないし存在論もない、聖書の神は万物の創造者で存在論をもっています。
だから、両者がそれぞれ敬う対象を、同じ神と捉えるところに問題があると思います。両者は、全く別のものだと思います。
神道は多神教であり、祖霊崇拝性が強いため、古いものを尊びます。氏神信仰などの地域性の強いものも多い。鎮守の森など何処にもあります。
気象、地理地形に始まりあらゆる事象に神の存在を認めます。いわゆる八百万の神であります。
生前業績があった人物を没後神社を建てて神として祀る風習なども認められます。このようにきわめて人間的な面もあります。
そこには、絶対者とか創造神という神の概念が全くありません。わたしにとって神とは創造神なのです。だから当然唯一なのです。
全く違う宗教が同じ神という言葉で捉えるからおかしくなるので、聖書の神は、創造神と言ったほう的確ではないでしょうか。
そもそも日本にキリスト教を伝えるときに、キリストの創造神を日本語に訳するときに神と訳したのが間違いなのでしょうね。
したがって、両者を比べてとやかく言うのが間違っていると思います。
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