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2009年1月18日 (日)

人生は人間関係

人間社会の問題は、85%は人間関係だ、と書いてある本をどこかで読みました。パーセントの正確さは別にして、本当にそうだと思います。

夫婦の問題、恋人との別れ、結婚問題、知人友人との関係、会社での上司とか部下および同僚との関係どれも対人間。人間関係を制するものは人生を制するといえるでしょう。国家と国家の問題にも人間関係が大きな影響を及ぼすことがあります。

人間は、1人で生きているわけではない。その関係には、助け合う関係とは限らず疎外しあう関係もあります。例えば、受験においても他者を疎外することによって入学できる。リストラも同じで、自分の存在そのものが相手を疎外する結果を生むこともあります。


人間の社会は、競争する場合に限らず、このようなことは当たり前のことで、生きていくとはそう言うことだと思います。

人間関係で喜んだり怒ったり悲しんだり、傷付けられたりするのは、その人がそのように感じるからだと思いますが、人間関係はそのような人の感情にも大きな影響を及ぼします。そして、感情は時により異常な行動を誘発します。

この人は何を云っているのか理解できない、と感じる時、それは両者の考え方が違う時、あるいは勘違いしているのか、それとも理解力する能力(知識とか経験がないことを含めて)の問題か。

行動にしても、相手の行動が理解できないときは、相手の人があなたと違う考え方で行動しているから。

これらのことは、そもそも人間社会は、持って生まれたものが違う、生まれも育ちも違う人間が社会を構成しているのだから当たり前といえば当たり前といえます。

人生は出会いで決まる、というのは本当だと思います。その人の人生を決めるのは、人間関係が殆どなら、出会いはその人の人生に大きな影響を及ぼします。だから良い出会いに恵まれることは、その人の人生を実り豊かなものにするといえます。

同じ人間はこの世に二人といない。人間関係で直面する数々の問題の元は、基本的に相手と区別する自我の存在にあると思います。

個性とは、神があなたに与えたパーソナリテイーであり、創造主である神の意思と目的によって造られた作品としての資質であると思います。

自我は行為や感情の主体、表への現れ方によって、他者との関係における問題や摩擦を引き起こす原因となります。それを自己中心というのでしょうか。

自己中心は個性がなければ存在しません。自己中心と個性はコインの裏表。その人が造られた目的にそって自己を積極的に表に出されているときは、個性として輝きます。

一つ間違うと自己中心という、受け取ることしか考えない消極的な存在になり、他者との摩擦のもととなります。神はこの傲慢につながる自己中心を戒めておられます。

他者から得ることしか考えない人生を送っている人は、生きる姿勢がどのようなときにも自分が先で自分が中心、といっても自分は何もしない。

このような人は、他者との間に摩擦を起すだけでなく、心の充足を他者に求めているから、その人の心はいつも不安で満たされない気持ちでいっぱいだと思います。

そのような状態をストレス状態というのでしょう。その人の身体にも悪い影響を及ぼします。

反対に自分の持っているものを与える人生を送っている人は、自分がして欲しいと思う事を人にしてあげる人。他者に喜ばれ、その人の心は平安と喜びで満たされる。

神は「隣人を自分のように愛しなさい」、という掟で与える人生を送ることを人間に命じておられます。これが人間関係を、世界を平和に導く唯一の方法だと思います。

人生のある時期、1人の人間がその人の人生を横切ります。

もしその人間が横切らなければその人の人生の方向は違ったかもしれない。そのような形でわたしたちは毎日を生きています。

歴史にもしはタブーですけれども、わたしたちはそのもしの出会いの意味に気がついていないことが多いと思います。

過去を振り返ってみて、人々が偶然と呼ぶこの“もし”の背後に何かがあるのではないか、“もし”を密かに作っているものがあるのではないか、と思えるときはありませんか。

あるとしたら、その“もし”は必然となり、“もし”のもつ意味が大きく変わってきます。人生に偶然は一つもない、と誰かが言っていましたね。もちろん、この“もし”はその人の人生への神様の介入を意味しているのです。

人間関係をスムーズにするには、なによりも意志の疎通が必要となります。意思の疎通は、世代が違えば、立場が違えばなかなか困難なところがあります。

人は己の考えと違うことを云われた場合、なかなか相手の考えを受け入れられないものです。

自我は、まず己れの考えを守ろうとします。このような場合意見が違えば、どうせ世代が違うのだから言っても無駄、これ以上言うと喧嘩になるから、と自分に納得させてその場を収めて、相手を理解する努力をしないことがよくあります。

このような姿が、家庭で、学校で、社会で見られる日常の姿ではないだろうか。相手が何を考えているかわからない。お互いに自分の云いたいことだけをいっている。

相手の立場に立って考えてみるという努力をしない。わたしたちは、相手の立場に立つための心の余裕すら失ってしまったのでしょうか。

自分の立場でなく相手の立場になって物事を考えて見なければ、相手が何を欲しているかは理解できません。
理由なき無差別殺人が続発し、普通の子供が突然切れて暴力をふるう。

世間が、相手のことがわからないから不安は不安を呼び、人は人を敬遠し、人と人との関係が希薄になっていく。そうすると自分勝手な思いを持つようになり事件を起こしてしまう。

これらは、コミニュケーシヨンが成立していないところに問題の根源があるのではないかと思います。

なぜコミニュケーシヨンが崩壊しつつあるのかと考えると、そこには世代の違いも、立場の違いも、置かれた環境の違いもすべてを超えて人々が共有するものがないからではと思うのです。

人間は、もともと他者と共に生きるように出来ています。そのことへの願いも持っています。そのためには意志の疎通が必要ですが、それは相手の言語をどれだけ正確に理解しているかにかかっていると思います。

思い込みとか、自己判断とか、自己解釈で、同じ日本語を話しているのに通じないこともあります。

人は、基本的に自分の経験や知識の中で知っている以上のことは考えられないと思うのです。だから受け取り方により同じ言葉がまったく別々のことを意味することもあるのですね。

人々が立場を超えて、世代を超えて、置かれた環境を超えて共有するものがあれば、お互いの意志の疎通がもっと上手くいくのではないでしょうか。

それは、人々がこの宇宙を創造された神様がおられることを認識すること。人間はすべて、その神の被造物で、自分は生きているのではなく支えられ生かされている存在であること。

だからみんな神様の下では平等だということが分かれば、人々はもっと謙遜になり、人々の意志の疎通も上手くいくのではないでしょうか。

意志の疎通が上手くいかないのは、自分が一番、わたしが、わたしがという意識が強すぎるから、自分を造った創造主である神を一番にして、人間至上主義とはこの返でお別れしたいものですね。

人間至上主義の弊害が余りにも目立ちますので、ちょっとぼやいてみました。

ちなみに、教会では十代の若者から八十以上の老人に至るまで、兄弟姉妹と呼び合って、何のわだかまりもなく会話をしています。

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