自立できない若者
自立できない若者と書きましたが、自立しない若者とも言う方もおられます。どちらが本当でしょうか。どちらも本当かもしれません。
この問題について、ちょっと考えてみました。イギリスも日本も若者の失業率は10%程度と云うことです。そして、イギリスでは、若者のホームレスが問題になっていると聞きます。25歳以下の若者の内25万人もがホームレス状態にあると云うことです。
なぜかというと、イギリスでは自立が強く促されるのでニートとかひきこもり状態にある若者を家庭は受け入れないということです。
だからイギリスでは、将来のホームレスの予備軍である若者の失業者を社会問題として対策を講じていると云うことです。
日本では、ホームレス状態にある若者はイギリスに比べればはるかに少ない。これは日本では家庭がその受け皿となっているからと云うことです。
だから、日本では、ニートとかひきこもりが社会問題となるが、これらは家庭の問題で、また本人の意欲の問題として自己責任ということで処理されているように思います。しかし、家庭の問題とするのは次のような理由により問題があるのではないでしょうか。
家の中で暴れる若者の特徴は、一様に家を出ようとしないことだと云うことです。そんなに親が気に食わないのなら、家を出ればと云いたくなるが、決して出ない。
それは家にいれば、部屋を与えてもらって、食べることも寝ることも何も心配いらないことはよくわかっているから、それに甘えているのではなかろうか。一昔前の親なら、強引に放り出したと思います。
なにもできないのに、プライドは人一倍。びっくりするほど高い希望をもつが努力はしない。努力しかけても、人のせいにしてすぐに挫折する。
人をバカにするのに、自分は人に何も見せるものはない。自分には何もないことが分かっているので、そこを責められたら、暴言とか暴力で反応する。傷つきやすく、小心だ。成熟していない姿そのものです。
置かれた状態がよく分かっているから、社会からのプレッシャーもあり閉塞感が増す。閉塞感が増せば、思いっきり暴れたくなる。家庭の中であれば、暴れても自分は守られるとよく分かっているから暴れる。
しかし、外に対しては良い子であろうとする。だから問題が起これば、なぜあの子がとなる。
本当に病気であれば医療的な手当てにより事態は改善することもある。
医者にかかっても改善しない一部の若者は、ある精神科医が本に書かれていましたが、熱心に関われば願いは拒絶され、同情すれば怒られ、忠告は無視され、そして彼等はますますとりまく社会と不調和を起すと。
しかし、家を飛び出して成熟への努力もしないし、気に入らないと暴れるくせに家を出て行こうとしないのは、かれらは強烈な依存者であるからとも書かれていました。
生き物にとって巣立つことは成熟のための必須の条件であると思います。病気でないなら医者は何もしないし、家から出すように進めますが、生活していく資金もなく方法も知らないので、1人の生活は無理であります。
今の日本では、四十も近くまで社会にも出ずにいた若者の、社会復帰は特殊な技能を持たぬ限り相当困難を伴います。
いや技能だけでなく、だれでも安楽な環境に余りにも慣れ親しんだら、その者にとって未知である社会へは、若い時ならまだしも、四十も近くなれば、プライドと不安でなかなか旅立てるものではありません。そんな勇気があれば、早くに飛び立てているはずです。
親から早く離れたいと思うのは、人間を含めた動物が持つ本性だと思います。
日本では、本人の社会に出ようとする意欲が無いことを問題としていますが、社会に出ようとする意欲をなくすのも、受け入れる社会の構造
(たとえば、社会に夢をもてないとか、社会が構造的にもつ不条理とか不公平など)が問題だとすれば、自己責任を問うて、あなたが意欲を持たないから悪いと責めるだけでは、ただでさえ自責の念にかられている若者には、何ら問題の解決にはなりません。
意欲を持てるような受け皿を作ることが大切かと思いますが、それで解決するのは、自立しょうともがいて自立できなかった場合に該当するでしょう。
反対にもともと自立する意欲が無い若者もいると思いますが、このような若者は、自立するのが人間の本性とすれば、病的かと思います。その場合は、心の病を持つ患者として対処すべきでしょう。
年をとり成熟の機会を失い、親が面倒を見られなくなった若者は、不安とプライドからくる閉塞感に追い詰められなおさら飛び立つことも出来ず、社会の底辺へと沈んでいくのが目に見えます。
社会に飛び立つ時期を失した若者に、勇気をもって飛び立てといってもなかなかできるものではありません。また、そのような若者を簡単に受け入れるほど今の社会は甘くありません。
こうして考えてみると、やはり将来のホームレス予備軍であるニートとかひきこもりの若者は、野性の動物がするように、早い時に社会に放り出す厳しさと、自立への意欲を持たせるための社会の配慮が必要かと思います。
イギリスで行われているように、具体的には、若者の就学・就労を支援する組織とか生活保護の拡大などで生活を安定させると少しは夢も持てるようになると思うのですが。
そうした社会の配慮が若者の成熟を促すのではなかろうか。そのようなことをすれば、甘えを促すという方もおられるでしょうが、社会の構造がそのような若者を生んだ原因だと思うし、
放っておいても将来は社会問題として取り上げなくてはならなくなるのは必定ですから、やはり若い内に社会復帰を促すような配慮をする必要があるかと思います。
そのような配慮をしても、社会に適応できない若者もいるのは確かです。それらの若者は切り捨てることになるのだろうか。これは、所詮人のすることには限界があるということだろうか。
この世の仕組みは勝者と敗者を作る仕組み、競争を根底にもつ社会ではそのような限界を生きる貧しい若者を生むのは、割り切れないがやむをえないと思うし、
そうであるならば最終的には社会が対処すべきこととして受け止めるしかないのではなかろうか。それは弱者を排斥して勝ち残った勝組みの責務ともいえると思うのですがいかがでしょうか。
聖書によると、イエスは、「貧しい人々に施しなさい」(マルコによる福音書第10章21節)とか「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコの福音書第12章30節)、といわれていますが、
これらの聖句は、病気でもないのに、怠けているがゆえに貧しい人をより怠けさすために助けなさいということではないと思います。
「隣人を自分のように愛しなさい」というのは困っている人がいれば無条件であなたがすべきことをしなさいということですが、
イエスが言われるこれらの聖句の対象となる人は、社会制度上、あるいいはこの世の価値観にあわなくてやむなく生まれた貧しい者とか弱者のことを言われていると思います。
貧しい若者が増えるのは、この世を支配されている神の御心ゆえといえるのではないでしょうか。だから、恵まれて暮らしている人々に、あなたはその人たちを見てどうしますか、と問われているように思うのです。
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息子を育てているころに良く聞いた言葉に、「自分に合った仕事が見つかるまで探せばよい。」という言葉がありました。
私はとても違和感を覚えました。
まだ何の経験もない者が、自分に合っているかどうかなどと言うのは100年早いと・・、合っているかどうかではなく、出来ることなら何でもして、生きるために働くべきではないのかと思っていました。
その親の甘さに驚き見つからなかったらどうするつもりなのかと、人ごとながら気がかりでした。しかし、やがてその心配は現実のものとなったのです。
健康な体を頂いて、教育も受けたのですから、私は「働かざる者食うべからず」式でしたから・・。そもそも息子たちは私から解放されたいと思っていたでしょう。
幼い頃から、自立に向かって備えて行くことは親の役割だと思います。たとえどんなに子供の主張が正しくても、私は頑として親の言葉に従わせました。それは意識的にそのように育てました。
家庭は楽しいだけのところではなく、特に小さい頃は訓練の場でもあるのです。そのことを最近は忘れられている様に思います。
親と子は友達ではなく、きちんとした上下関係とするべきです。そこの所から問題はあるように思います。結局苦しむのは子供ですから・・。
そのことは信仰の従順にも繋がるように思います。
投稿: ムベ | 2013年2月14日 (木) 23時52分