この世は相対的
この世のことはすべて相対的です。わたしたちは学力の高い学校に入れば、大企業に入ればよくやったとほめられ、世間からも一目置かれる。ホリエモンのように、お金を儲ければ人々から、優秀だ、立派だといわれて尊敬される。それらのことは、すべて誰誰と比べてという前置詞が付きます。ということは相対的です。
もっといえば、大きな家を建てれば、六本木ヒルズに住めば人は羨み尊敬する。芸能人は有名になれば一目置かれて、すぐに国会議員になる。その人が国会議員にふさわしいからではなくて有名だから。
相対的な世界は必ず反対の立場の人がいます。勝ち組みがいれば負け組もいます。強者がいれば弱者もいます。
その評価の尺度は、支配欲、名誉欲、所有欲で、自我が、つまり我欲を最大限に発揮した人を評価するのです。そのことはなにも法律に違反しているわけではありません。
いや、法律違反どころか、社会の仕組みがその様になっているから、その人たちは社会の仕組みをうまく生かして、もっとも巧みに泳いだということでしょう。
その裏には、敗者もいれば、社会の仕組みに乗れない弱者もいることが忘れられている。社会の片隅で、そのような弱者のために生きている一部の人々の愛も忘れられている。本当はもっとも尊敬されていい人々なのに。
日本国憲法によれば、すべての人間は、人間として尊厳をもって生きていく権利が与えられているはずなのに、人間の尊厳とは程遠いところで生活をしている人もいます。
このようにわたしたちの社会は相対的ですから、弱者と強者、敗者と勝者の併存は当たり前です。誰誰と比べて優秀かそうでないか、誰誰と比べてお金持ちかどうかで判断される社会です。それが資本主義社会の真実の姿です。
しかし、よく考えるとおかしいですね。人間一人ひとり持って生れたものが違うし、育った環境も違う。多様性に富んでいるということが忘れられている。
それを一つの尺度で測るのですから、そのようになるのはあたりまえです。資本主義、自由主義は正義という名のもとに罪が、裁きが正当化されているのです。だからそれが罪だとは誰も気が付いていないのです。
つまり、わたしたちは毎日良いことと悪いことを判断しながら生活していますが、その良いことにしても相対的に良いこと、絶対ではないのですね。
法律に違反しなくても、良いことと思っていても知らず知らずに罪を犯していることがよくあります。
神の愛は絶対善の世界です。絶対善が支配する世界では、このような勝ち組とか負け組とか、弱者とか強者という観念は生まれません。
競争に競り勝って巨大な権力と財力を持ち、人を思うままに支配しても、この世の法律では罪ではありませんが、いや、誉めたたえられることかもしれませんが、神の尺度ではどうでしょうか。
人間の歴史を見ると、それはもう悲惨です。なぜこのようなことにと思うことが多々あります。人間一人ひとりと話してみるとそんなに悪い人はいないのに。
現実に世界で起こっている悲惨な状態を見ると、その余りの悲惨さについつい目をそむけたくなります。そこには嫉妬と憎しみが渦巻いています。その嫉妬と憎しみが罪だとは、渦中の人は気が付いていません。そのなかではそうすることが正義なのですから。
それは、この世界の歴史を形成する原理が、自我が全面に出ている姿、自我の無秩序な拡大が原因だと思うのです。
この世の仕組みがそういう個人の、国家の欲求を最大限に発揮できる仕組みになっているからだと思います。自由の名のもとに欲望がむき出しになり、それが良いこととされている。
現在アメリカで進行しているサブプライムローンと投資銀行問題はまさに(欲望)を主体とする自由と資本主義の最たるもの。そろそろ考え直すべきではなかろうか。
人間の支配、といいますか富の追及にしても限りがありません。他人と比べて、他国と比べてもっと豊かになりたい。このような無制限な欲求は自然破壊を産みます。
そして、人間の生存基盤をも揺るがせます。世界の独裁国家を見ると、権力は自己を絶対化する傾向があり、自己を絶対化した独裁権力は、本当に悲惨な結果を生んでいます。人間の醜い面をさらけ出しています。
人間の本性は、人とか物に対する支配欲です。この欲がむき出しになった社会は悲惨極まりない。
使徒パウロは、この人間の本性を「肉」と呼んでいます。パウロは、キリストを信じる者に、そのような肉の社会に埋没し、押し流されないように戒めています。
人々の愛と助け合いの精神が最大限に発揮される社会は、共産主義社会かもしれません。原始キリスト教会は、信徒が自分達の全財産を持ち寄り、お互い不足分を補いあい助け合って共同生活をしていました。
ソ連の共産主義社会が崩壊したのは、統治する者が権力を独占したからだと思います。決して平等ではなかったのですね。
ソ連の共産主義社会は、本来の共産主義社会ではなく、ゆがめられて統治するための手段に利用されただけであったということです。一握りの権力者にゆだねられた共産主義社会は、一つ間違えば資本主義社会よりも悲惨です。
わたしは思うに、悲惨な歴史を持つ人類が、今日まで生き残ってこられたのは、永遠と続く人類の歴史の中に、目立たないけれども絶えることのない人々の愛が脈打っていたからではないでしょうか。きっと、神様はそこに働いておられると思います。
イエスを知る者にも、知らない者にも神の愛は働き脈打っています。最終的にはすべての人々が神様の救いにあずかれることを祈らずにはおれません。また、わたしはそのようになると信じます。
イエス・キリストの十字架と復活は、悲惨な人間の歴史の現実を生きるわれわれに希望を与えます。
もし神様が愛のお方ならば、必ずやこのような悲惨な歴史を持つ人間を救おうとされるのは当たり前ではないでしょうか。そのような歴史への介入の痕跡は、わたしにはイエス・キリストしか見当たらないのです。
もし、神様がいないならば、人間が偶然の産物ならば、この世は、存在することに、生きることに何の意味もない虚無の世界です。そのように思いませんか。進化論で言う、適者生存の世界です。適しない者は抹殺されるのです。それは罪です。
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