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2008年12月11日 (木)

人間関係と心の傷

今日は、思いつくままに人間関係のことについて書いてみます。
毎日の生活にとって人間関係ほど重要なものはないといえます。なぜなら、わたしたちの日常生活は、ほとんど家族、職場、地域の人々との人間関係の上に成り立っています。人間関係を上手に築けるか否かによって、毎日が楽しくなり悲しくもなります。

人は人と関わる中で成長する。その人がどのような人と出会うかで人生がきまるともいえるでしょう。
不思議に人は、同じような、似通った人々が集まるものです。人は人を呼び、人の輪ができます。そういう中で人間はお互いに切磋琢磨して成長していくのでしょう。


楽しい、実りある人間関係を築くためには、受け身でなく、自分から積極的にこれぞと思う人にアプローチしていく必要がありますが、アプローチしても自分に魅力が無ければ実りある人間関係を築けません。

人は暗い人、消極的な人、嘘をつく人、時間にルーズな人、何か人に訴えるものを持たない人にはわざわざ近づかないものです。

そう言う意味で、つねに自分を磨いておくことが必要かと思います。豊富な知識、誠実で明るく素直な心をもった人は魅力あるものです。

人間関係ができるときは、何かをお互いに求めている、補完関係にあることが多いと思います。一緒にいれば楽しいとか気が休まるとか話し上手、聞き上手というのも大きな魅力でしょう。

人生の危機、たとえば大きな病を患う、仕事上の挫折、経済的困難に陥るなどの時には、日頃の人間関係が多いに生きてくることがよくあります。

そのようなことを考えると、良い人間関係を築くことは、富とか、地位を得ることよりも大切かと思われます。
人間関係は、このように人生を生きていく上で大切なことですが、心に何等かの傷を持っていて、上手く人間関係を築けない人もいます。

生まれもった資質とか、生まれ育った環境によって交友関係を作るのが下手な子供もいます。その不器用な性格を大人になっても引きずっている人も多くいます。

中には子供のころから素行が悪く事件を起こすような場合もあります。最近新聞をにぎわしている事件は、不可抗力で起こすのではなく確信犯と思える事件が多いように思います。

最近よく聞く、心の病などは、たしかに病気だと思うのですが、育った環境が原因なのか、生まれつきのものなのかわたしにはわかりません。同じ環境に育ってもまったく違った性格に成長する場合もありますから。

ただ、性格のことではないですけれど、東北大学の医学部の先生が、心の病は脳の傷が原因だと発表されていました。これは遺伝子が原因、いわゆる心の病はDNAのコピーミスと言うことになると思うのですが。

それは、心の病が肉体の欠陥の問題だということだと思うのです。ということは、その人の魂は健全であり、たまたま遺伝子の問題、肉体の欠陥で心の病を持ってしまったということですから納得できます。

良きものしか造らない神様は、多様な人間を造られるが、魂が病んだ人間を造られることはないと思うのです。

ビジネスでは、お互い利用できるところがあるから、ということで個人的に親しくなることもあるでしょう。それでも全く人間性が違う、気の置けない人とは親しくなれないものです。とくに自我の強い人は敬遠されるようです。

自分の方からどんなに友達になりたくても、相手に自分が友達として選ばれなければ友達になれません。相手に選ばれるということは、相手に好感をもたれることだと思います。

だから人に好かれるタイプの人は友達が多いものです。相手を思いやる気持ちを大切にしている人、よく気が付く人は好かれるタイプではないでしょうか。

良い友人、知人と出会えれば人生は豊かになる。豊かな人生になるか否かは、出会う友人、知人によって決まるといえるでしょう。

わたしは、一緒にいると気持ちが休まる、といわれたこともあります。現役をリタイアして、今付き合っている知人・友人はいずれも三十年以上の付き合いです。

それぞれ特徴があって面白いものです。わたしは性格的に誰とでも仲良くなれるというタイプではありません。気のあった人と長く付き合うというタイプです。

さて、最近騒がれているいじめの問題はどうなのでしょう。いじめも人間関係の一場面です。いまいじめは大きな社会問題になっています。関係者の対応の悪さや後手になる対処の仕方が指摘されています。

解決はなかなか難しいものがあるようです。いじめの原因の一つとして聞きますのが、それは、心に傷を持った人は他者を傷付けることによって癒されるということです。

これはやられたらやり返す報復の原理ですね。ある本に書いていましたが、人類が、今まで種族が存続できたのはその原理が働いたためとも言われています。辛く悲しい原理です。

イエスは、この報復の原理に対し、次のように言われています。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。

しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(新約聖書マタイによる福音書第5章43節)。

もちろん人間は、報復の原理だけでなく、通常、理性を働かせて、良心を働かせて生きています。だから報復にも程度を考え自制が働きます。

しかし、人はその理性とか良心による自制の限界を超えた心の傷を受けとき、善悪のはっきりしない価値観の多様性のなかで、子供の頃に正しい社会規範を身につけていないと、短略的に自分の心の傷を癒すために、本当は癒しにはならないのですが、その結果がどんなに重大になるかを考えずに自分の都合だけで相手を傷付けてしまうことがよくあります。

何かで読んだのですが、幼少の時に身に付いた善悪の規範は生涯変えることが出来ない、ということです。

こうしてみると、いかに子育てが重要かということでしょう。人間の成長には教育は大きなウエイトを占めます。そうでしょう、人間が一人前になるまでに二十年もかかります。

動物に比べると本当に長い時間教育が必要なのですね。これも人間だけに与えられている神様の摂理でしょう。

大人になっても人間は、仕事の中で、上司の理不尽な対応、人格を否定するような扱いを受けて大きな心の傷を受けることがあります。最近よく言われているパワーハラスメントです。

子供は子供で、学校で、友達との付き合いの中で心の傷を負うことが多いでしょう。このように、生きている限り心の傷を多少とも負うのは避けられないことです。

心の傷をいやす方法は、人格を尊重してあげること、あなたは大切で必要な存在だということを教えてあげることだと思います。それは愛するということと同じことです。どのような人間も、神様にとって必要な人間なのは確かなのですから。

心の傷の中にはトラウマがあります。トラウマの原因は何処にあるのでしょうか。子供のころの衝撃的な体験が心の傷になることが多いと聞きます。

相手の心の傷に気がついても相手には絶対に言ってはいけないと思います。なぜなら、相手は、自分でその心の傷を修復できないから苦しんでいるのですから。そこを他人から言われるとよけいに傷つくことがあります。

心の傷は、普通時間が解決すると言います。でもその傷が余りにも大きすぎて、時間で癒されずに、生涯その傷が残る場合もあります。

人の心は、自分の嫌な思い出は忘れて良い思い出だけが記憶に残ると思っていたのですが、実際は、嫌な思い出を忘れるのではなくて、人の記憶は嫌な思い出を良い思いでに修正するようにできていると聞きました。

嫌な思い出の記憶が薄れていくのも助けになっています。

人の心の防衛本能だと思いますが、上手く出来ていますね。
心が傷つくようないやな思い出ばかりがいつまででも残っていったら、心が滅入ってしまって人間は生きてはいけません。

だから、心に傷を持つ人への対応は、忍耐して、ひたすら相手の心の傷が癒されるのを願い、気持ちに余裕を持って、そういう相手を否定するのではなしに、そのままの状態で受け入れて、聞き上手に徹するのが最善かと思います。話すことにより癒される部分が大いにあると思います。

イエスは、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(新約聖書マタイによる福音書第5章44節)と言われました。
人の心の傷を癒すのは、時間とか、人の言葉もありますが、本当の解決は、愛の働きだということでしょう。

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