生かされている意味
一部の突然死されるような方を除いて、人は怪我とか病気のために寝たきりになり、社会とのコミニュケーシヨンを取れなくなっても簡単には死ねません。
なぜすぐに死が訪れないのか、ポックリと死にたいと望む寝たきり老人に死が訪れるのに十年もかかることがあります。これは何事も効率的に出来ている人間の体の仕組みからみると非常に矛盾していると思われます。
それは人間が抗生物質などによる医学の進歩の成果としての延命の結果なのでしょうか。人間は、遺伝子に死のシステムが組み込まれていると聞きますが、その死のシステムはどうなっているのでしょうか。
死はすぐには訪れない。そこにはやはり何か意味があるはずだと思いませんか。植物状態とか痴呆の為に社会とのコミニュケーシヨンを取れなくなった人でも生かされているのは、どのような意味があるのでしょうか。このような疑問をもつのは、おかしいのでしょうか。
周りの動植物は、大概は子孫を残せば枯れて死んでいきます。人間だけが、子供が一人前になっても、例えば、その時の親の年齢が五十歳とすれば、まだ、男の場合平均寿命まで二十九年もあります。女性は、排卵が止まっても三十年以上は生き続けます。
考え方として、ある1人の人が地球上に生きていることが、周りの人にどのような影響を及ぼしているか、廻り回って大勢の人に影響を及ぼすということ。
一人では小さな影響であっても、集まれば相当に大きな影響を周りに及ぼすのではと考えるのはどうであろうか。
社会とのコミニュケーシヨンを取れなくなった寝たきりの人が存在するには、酸素を吸い食べ物からエネルギーを作り出します。
これだけではごく小さな病院内での出来事かもしれませんが、しかし、この小さな出来事にかかわる数多くの人がいる。
例えば、看護師、医者、家族、ヘルパー、病院の職員、健康保険・介護保険に関わる人、食事を作る人、医療に関わる人。
それだけではない、ある1人の、寝たきりの人のその存在は思いもよらないところに有形無形の影響を及ぼしていることもあるでしょう。
いくら隔離された病院内に動けないまま生きていても、最終的には他の人間の住む環境に、心に影響を及ぼしていることもあると思うのです。
逆に考えれば、寝たきりの人にすぐ死が訪れないのは、その人の存在がもたらす周りへの影響力に意味があるからではないのだろうか。
他国で起きていることは、わたし達にはまったく関係の無い出来事のように思いますが、しかし、それは何らかも形でわたしたちに遅れて影響が出てくる、といえないだろうか。
ましてや、健康で活動的な人の社会に対する影響力は大きなものがあるように思います。わたしは、そこに人と関わる手段として仕事をもつ意味を含めて社会でいろいろな人と関わる意味があると思うのです。
わたしは、何事にも、わたし達がこの世に存在しているのには意味があるとかねてから思っていました。いやそのように思いたいのかもしれませんが。
だから、仕事、家庭、勉強、人と交わるあらゆる活動に意味がある。人生を生きる上で必要な何事にも意味がある。
いま世界で起っている戦争を含めすべての出来事に意味がある。全人類の一人一人の人生に意味があると思うのです。
患難が、人とのかかわりがその人の人格を磨くとか、霊的訓練だといっても、人とのコミニュケーシヨンをとれなくなれば、そのことはどうなるのでしょうか。
他の動物のように、子供を産み育てるだけなら五十年間も生きれば十分だと思うのですが。
しかし、人間は五十歳では死にません。それはただよけいに生かされているというだけでなく、そこに存在意味があると考える方が自然だと思うのですが。
人間が死んでも残せるもの、それは子孫と主に言語を介した文化です。残せるものの一つである文化を残していくという意味では、生殖年齢を過ぎ子供がひとり立ちになっても生きる意味がある、このように思いませんか。
解らなければ、最終的には聖書を開くしかないと思っていますが、答えが出ないこともけっこうあって、そういう場合は、いつかそのうちわかるはずだと思うにとどめています。
もしかしたら、真理を見つける鍵が人生のどこかにしまわれていて、これを見つけるために、人は苦しまなければならないのかもしれません。
その苦しみは、この世に生きている限り逃れる術がない。神様は簡単にはこの世の真理を教えてくれません。
植物人間になっても同じです。隣に植物人間になった人がいたら、きっとその人はわたしに暗黙の内に何かを語りかけているのかもしれない。
そして、その鍵が見つかったら、真理の扉が開く。でも、その扉は入り口にすぎない。その先はどのようになっているのだろうか。終着駅は次の世かもしれません。
神を信じるとは「世界を創造しその中で起るすべての出来事を統御する意志が存在することを信じること」という言葉があります。そして、永遠に存在する神、はじめにおられて万物を創造し完成する方。
この方を知りこの方の意志にしたがって存在するとき、この塵芥のようなわたしたちの存在も、永遠の意味を持つようになる。
もちろん、塵芥と言う意味では健康で活躍している人間も、寝たきりになり社会とコミニュケーシヨンを取れなくなった人間も、同じ存在だといえます。
このような神を信じることがなければ、人間は存在の意味を失い、地球上をうごめく虫けらのごとき存在となる。世界は、それこそ弱肉強食の論理が支配し、不条理・不公平が闊歩する世界となり、修羅場と化す、と今のところこういう結論になりました。
つまり、生かされている意味についていろいろ書いてみましたが、最後はわからないから、人間を創造し、この世を支配されている神の意志を信じる(信頼も含めて)ことにしました。
そうでないと、何を縁に生きればよいのかわかりません。生きているのに何も縁がないのなら人生が余りにも空しくなります。人間が蛆虫のような存在で無いことを信じて終ります。
いやいや蛆虫でもきっと生きている意味があるのでしょう。
最後に、内村鑑三先生の言葉を紹介しましょう。
「この世は一単位であり、人類は一大家族である。これは余が余の基督教の聖書において読むところである。愛国心は・・このことを否定するように見えるけれども。諸君は他人を完全にすることなしに諸君自身を完全にすることはできない。・・外側の成長は常に内側の成長を意味する。それは反射作用である。」
人間関係とは、社会と関わることの意味とはこういうものなのでしょうね。
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