格差社会
最近、とくにバブル崩壊後、格差が叫ばれています。そのときにわたしがいつも思うのは、何を基準にした格差なのかということと、格差が無い社会なんてあるのかな、ということです。
人間には、もって生まれた資質もあれば、親から受け継いだものも、育った環境も、神からその人にだけ与えられた賜物もあります。その程度も千差万別です。
その人の努力ではどうしょうもない部分があります。だから、ひとつの基準で格差を論ずれば不公平が生まれるのは当然のことだと思うのですが。
格差が批判されると、つぎは機会平等をといわれていますが、やはりこれも完全な実現は困難でしょう。機会平等といっても、それを利用する人間がもつ多様性のすべてに機会を与えることなど現実的ではないし、不可能であります。
わたしが思うに、今の社会を見ていて、格差が大きくなったというのは、多様な社会だと言われながら格差を量る物差しの価値の一元化が進んでいることに、大きな原因があるのではないかと思うのです。
価値を量る物差しが一元化すれば、元来その多様性が特徴である人間を一つの物差しで計ることになり、適応できない人々は生まれるのは当たり前で、格差が生まれるのも当然だと思うのです。
その格差を量る価値の基準を、よくみてみると、所得格差に集約されるように思います。これでは、人間を量る基準としては、あまりに乱暴で、お粗末ではないでしょうか。
しかし、資本主義社会である限り、財貨は集中するように出来ていますし、お金はお金のあるところに集まります。財貨は偏在することによりはじめて機能するといわれます。
だから富める人ができれば貧しい人ができるのは現在の社会システムでは当然のことです。
そして、資本主義社会が成熟するにつれて、豊かさの、所得の格差が開くのも当たり前のことだと思います。
格差ができるのが当たり前の社会で、自分が富める者か貧しい者かは、人と比較して自分で決める。あくまで相対的なのであるといえます。全員が富める者、全員が貧しい者の社会なんてありえません。一人一人の富裕感も違うでしょう。
人は自分より貧しい者をみて豊かさを確認する。富める者が富める者であるためには貧しい者を必要とする。貧しい者の数が多いほど富める者の富裕感は高まり、優越感が高まる。豊かさはこのように相対的であります。
ロシアとか中国は格差を認めない社会主義社会を目指しました。このような国も、資本主義のシステムを取り入れれば、人々の押さえられていた欲望が暴発するごとく走り出しました。
瞬く間に、その所得格差は資本主義国を上回ってしまいました。徐々に経済が成長した国は格差を是正しながら発展するものですが、急速に経済が発展した社会は、格差も急速に広がるのは当たり前です。
他人より豊かになりたい、何事も自分は人より上位にいたいと思う心が人間の資質だと思います。聖書で言えば、これを自己中心、傲慢と言う罪だとされています。
富める者が生まれても貧しい者がそれ以上に生まれるのが、今の社会のシステムであります。
資本主義社会は、人間の持って生まれた自己中心からくる自然的欲望を素直に発現すことができる社会だと思います。そう言う意味で、資本主義社会は、人間にとって、最善ではないけれどもよりよい社会なのでしょう。
格差は悪い面もありますが、その格差が人間に向上心を持たせるという良い面もあります。貧しい者をみれば人は優越心を持ち、自分より富める者をみればより豊かになりたいと思うのは当たり前です。
何かの本に「人間が向上心を持つためには、卑しむべき人を目のあたりにするのが効果的だ」と書かれていました。
最近流行の、規制緩和とか構造改革は、人間の向上心をくすぐる方向、どうも格差を拡大させる方向に向かっているようです。
だから、向上心の高い人ほど富を手に入れることが出来るチャンスがあるといえます。だけど富に感心をもっていない人とかチャンスに恵まれない人は、チャンスがきても関係ありません。
格差が膨らむと社会不安が増します。富を手に入れる競争で負けた者、乗れなかった人は、あきらめて社会の隅で静かに暮らすか、不法をはたらいて富を手に入れるしかない。反面、目立たないが富に感心を持たず心豊かに悠々と生きている人もいる。
人間を量るはかりは、なにも富とか所得のみではないと思うのですが。所得を得るのが下手な人は貧しい者、弱い者との烙印をおされて、この世の表舞台から去るしかありません。
あまり格差が叫ばれて問題になると、次に問題になるのは、格差の是正であります。行き過ぎを是正するのは必要なことだと思います。
ただいえることは、完全な是正はありえない。また是正も、あくまで相対的に、貧しい者が、いや自分で貧しいと思っている人が、そこそこ豊かな気持ちになれる程度にと思いますが、すべての人が、等しく豊かさを実感できる社会は、格差を所得で考量する限り決して到来しないと思います。
富める人がいればそこには何十倍もの貧しい人々がいるものです。貧しい人がいるから富めるものがいるのです。今の社会は、富を持つ者は権力を持ち、力をもちます。だから貧しい人は、いわゆる弱者であるとも言えます。
人間は本来多様な者なのに所得という一面からしか人間を見ようとしない社会のなかで、人間が多様性であるゆえに、貧しい者とされ、弱い者とされている人々の為に、キリストがこの世に来られたのだと思います。
キリストは「わたしは貧しい者の中にいる」といわれています。不公平は不公平のまま、不条理は不条理のままには置いてはおきませんと、いわれているように思います。
新約聖書ルカによる福音書第6章20節 「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなた方のものである。
今飢えている人々は、幸いである。あなた方は満たされる。今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」。
天国では価値観が逆転してこのようになると言われています。といっても、この世においては解決できない格差は厳然と存在します。
だから、神様はこの世においては、けっして人間と人間の格差は否定されていないと思うのです。むしろわたしたちの訓練のために格差を用いられているように思います。
わたしたち一人一人が他者に対しどのように対応するかを見ておられるのではないでしょうか。
恵まれている人の恵まれない人に対する、あるいは強者の弱者に対する、あるいは勝ち組の負け組に対する対応といいますか人間関係を問題にされているのではないでしょうか。
新約聖書使徒言行録第20章35節「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」
新約聖書マタイによる福音書第6章24節「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方を親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは神と富とに使えることはできない」
人間のエゴを剥き出しにする資本主義社会に生きる人々は、富を追い求めることもほどほどにして神様のみ心に沿う生き方を求めなければならない。
富と神どちらにも使えることはでいないからどちらかを選択しなければならないと言われている。負け惜しみではないけれども、わたしはもう富を基準に人をみることは卒業させていただきました。
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