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2008年11月 3日 (月)

労働について

わたしは、新約聖書を読み始めた最初の頃、弱い者、貧しい者が祝福されて、金持ちは天国へいけないのだろうかと思っていました。

勤勉だから金持ちになった人、怠け者だから貧しくなった人もいただろうに、その人たちはどのようになるのだろうと。この世を勤勉に、真面目に生きたら地獄へ行くことになるのだろうかと。

新約聖書マタイによる福音書第19章16節で、掟をすべて守り、つまり、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさいという掟をすべて守ってきた勤勉な模範的な金持ちの青年にイエスは、


「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」といわれました。すごいたとえですね。絶対だめだといわれているようです。

また、別の個所で、持ち物を売り払って貧しい人に施しなさいともいわれています。つまり金持ちが天国へ行くのは、不可能だといわれているのです。

勤勉で、真面目な人は天国にいけないのだろうかと思いました。それがどうしても理解できませんでした。

怠け者が神様にほめられるのでしょうか。それは大きな間違いでした。第一に、聖書では、七つの大罪 (傲慢・貪欲・肉欲・嫉妬・大食・憤怒・怠惰)の中に怠惰も上げています。

勤勉に働くことは、良いことということは人間の本性だと思います。なぜなら、働かなくては食べてはいけない。そのような状況に神様は人間を置かれています。

働くことは人との交わりをもつことです。人との交わりの中で生きることによって人間ははじめて成長するし熟成する。

そして、人間社会が成り立ちます。だから人生に意義があるといえます。人間は労働を通して、世界中の人と、お互いに助け合い支えあってともに生きているといえると思います。

先の聖句もよく読むと、完全になりたいのなら、となっていました。そして人間にはできないが神にはできるとも書いてありました。これがポイントなのですね。

解説を読んでみると、イエスが金持ちの青年に財産を放棄することを求められたのは、自分の善行や価値に頼る立場を放棄することを求められたのだと思います。

自分を放棄、つまり自我を放棄すること、自分を無にして神にすべてを委ねることは、資産や地位や教養などを多く持っている者ほど難しくなるといわれているのですね。

それは分かりますね、財産などをもっていたら神様よりもそれに依りすがろうとしますからネ。

依りすがる物を何も持たない「貧しい者」は、つまり自尊心とか、うぬぼれとか、自信というものを持たないから、自分を無にして神にすべてを委ねることがより易しい。

だから、イエスの神の国の告知は、「貧しい者は幸いである。神の国はあなたがたのものである」で始まっているのでしょう。

この言葉を聞いて、弟子たちは驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言います。それに対してイエスは言われます、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」。

自分を捨てきること、無になることは、人間にはできないことである。

ということは、人間にできないことを神が成し遂げてくださるのである。罪ある存在である人間の救いは、神様の恩寵で成し遂げられるといわれているのでしょう。

ここでは神の国が到来したときの、価値観の逆転を言われているのではないでしょうか。

つまり、今の社会システム、つまり政治とか経済のシステムで、それがために貧しい者となった人々は、神の国が到来したときには祝福を受けるといわれているのではないでしょうか。

決して、怠け者が祝福を受けることではないと思います。

このような聖句があるのです。ヨハネの黙示録3章16節「・・・熱くも冷たくもなく、なまぬるいのでわたしはあなたを吐き出そうそしている・・」。

熱くもなく冷たくもない人間は、現実にいますよね。何を言っても無関心で悟りきったように見える人です。

想像つくでしょう、何を言っても反応のない人。物事の本質を知ろうとしない人、無気力な人、このような人を神様は嫌悪されています。

一生懸命人生を生きていない人、酔生夢死のごとく生きている人のことをいっているのでしょうか。

今度は、労働に関する御言葉を捜してみました。

まず、創世記第2章15節、「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。」。

この聖句では、地を耕すという使命が人類には最初から与えられていたことをさしています。また、この耕し、と訳されたヘブライ語は「仕える」ことをも表すということですから、人間にとって労働は人に使えることかもしれません。

この聖句は、人間が罪を犯す前に、神は命じて、「そこを耕し」、「守る」ように言われたのです。

このことから、労働(耕す)は本来お金を得る手段でなく、神の創造の秩序を担っていく大切な努めだったといえます。また、アダムが罪を犯す前に労働はあったから労働は罪を犯した罰ではないということです。

「守る」は園の環境を、秩序を守ることを指すでしょうから、今日の環境問題と同じです。園を守るのは園を耕す者の当然の役目だといえます。

そして、それらを命じて言われたのだから、耕したところを守るのは神の命令なのです。命令だから働かないという選択はないのです。働くことは人間に与えられた義務なのです。創造の秩序を保つために必須のことなのです。

箴言第6章6節から11節、「怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て知恵を得よ。蟻には首領もなく、指揮官も支配者もいないが、夏の間にパンを備え、刈り入れ時に食料を集める。怠け者よ、いつまで横になっているのか。

いつ、眠りから起き上がるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまぬいて、また横になる。貧乏は盗賊のように、欠乏は盾を持つ者のように襲う。」。

この聖句は、仕事を怠けているなら、貧乏は盗賊のように襲うと述べて、勤勉な労働が人間に不可欠であると述べています。

詩編127編「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の苦労はむなしい。主御自身が守って下さるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。

朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人よ、それは、むなしいことではないか。主を愛する者に眠りをお与えになるのだから。」。

この聖句は、労働の行き過ぎと神との交わりの中での労働を忠告しています。

神は労働の必要性を述べられていますが、反面、生活全体が労働に占拠されるとき、確実に人生は意味を持たないものに変わっていくともいわれています。

そのような、神との交わりを欠いた労働は、むなしくまた無意味だといわれています。

神とのかかわりを欠く労働が生まれるのは、必要以上の利潤とか名誉とか、業績を第一におくからです。これらは人生を生きていく上で必要なことですが、それらは消える価値です。

必ず訪れる死には何の力も、また、時代を超える力ももってはいません。真の価値を与えることが出来るのは、永遠に存在する神だけだといわれています。

労働に於いても神とのかかわりを忘れずに、それが神を愛するということで、労働によりパンが得られるのも神からのプレゼントであると感謝し、労働を通じて、神の掟を、つまり「隣人を自分を愛するように愛しなさい」、を実行しなさいといっておられると思います。

もちろん、この隣人は、自分の周りにいる、弱者であり困っている人、自分を必要としている人だと思います。

最後に労働についての聖句をあげておきます。

新約聖書テサロニケの信徒への手紙第一第4章11節「わたしが命じておいたように、落ち着いて生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、・・誰にも迷惑をかけないで済むでしょう」。

この聖句を書いた使途パウロは、キリストの福音と同時に労働の福音をつたえました。
内村鑑三氏は言っておられます。「愛せざる者は神を知らざるがごとくに、労せざる者はキリストを知るあたわざるなり。」

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