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2008年11月11日 (火)

神の性質

わたしたちは、日常困ったことがあったら、困ったときの神頼みで、神様!!と呼びかけます。たまに神社にお参りに行けば神様を意識することも多いと思います。

しかし、その神は漠然としていて、あまり深く考えたことがないのが普通の日本人の姿だと思います。神棚を拝むのも、神社に行きお参りするのもすべてこれ気休め、ですか。

もし、神がおられるとしたらどのような方か、その性質は漠然としていてちょっと分かりにくい面があります。頭を整理する意味で、神様の性質について考えてみました。


神とは、辞書を参考にまとめてみました。「人間の及ばぬ知識・知恵・力を持つとされる存在の一種で、人間を含む生命やこの世界そのものなどを創り出した存在であるとされることもある。

人知を超えた力や運命と関連づけられ、信仰や畏怖の対象となる」、と説明されています。

本来神様は宗教においてその存在を議論されるところであります。

一神教においては、神は唯一の絶対的な存在であり、起源を人にしていない。神の前には何も存在せず、神は現在も意志をもって人類の歴史に影響を与えている。これが聖書のいう神のイメージであります。

多神教においては、起源を実在した人間におく神と、そうではない神が存在します。また、その両方をもつ宗教的体系も存在します。

実在した人を起源に持たない神(以降「自然神」と書く)は、概念的な神であったり、自然の一部であったりします。また、概念的な神が山や岩、古い木などに宿る場合もあります。

実在した人を起源に持つ神(以後「人間神」と書く)は、生前に特に著明な働きをしたり、神との接触を得たとされる場合があります。

なお、神道においては、祀られた人物は全て神であるとされており、特に大きく祭られている人間神も、彼らだけが特別に神として扱われているわけではない。単に有名なだけである。

神道では、有力者が悲痛な最期を遂げ、その後に大きな災害などが起きた場合、その人物を大きく祭りあげる事があります。

災害の原因をその者の怨みにあるとして、祭りあげることで怨みを解消し、さらには災害をもたらした強大な力を利用して自分たちに有利な御利益を期待します。

(祟り(たたり)の神を、逆に守護神へと転化する例)

わたしは、人間神も自然神も万物の創造主とはとても思えないし、また存在論を持っていませんので、生ける神を想定する限りこれも論ずるに値しないと思います。

もし、人間神とか自然神を聖書の神と同列に扱うならば、両者はまったく異質なものであるから、そもそも聖書の神を日本語に訳するときに「神」と訳したことに問題があると思います。創造神あるいは創造主と訳すべきでしょうね。

わたしは、神の存在を認めないのならまだしも、認めるならやはり万物の創造者であり生ける神であり存在論をもつ神であるべきだと思います。

聖書の神は、万物の創造主で生ける神で存在論を持っていますので分かりやすく、ここでは聖書に記されている神の性質について書いてみます。

聖書の神は唯一絶対の神であります。万物の創造主であります。神は、霊であり人格(神格)を持つといえます。無形で目に見えない存在。

霊は、人間ももっているとされています。人間に於いて霊は、知性、心情、意志などの精神活動の座、生命活動の主体。

よって人間は、物質的身体、つまり肉体の中に霊を宿した精神的存在と言えます。だから神も、知性、心情、意志などを持つ精神的存在者と言えます。

神の性質について聖書は、神を全知、全能、無限、偏在、永遠、不変、聖、義、愛であるとしています。
神は全知と言うのは、全歴史、全時間を一度に見渡すことができ、全時代、全世界のすべての事柄を知っておられる、ということ。

神は、わたしたちを知り尽くしておられる。活動しているときも、休んでいるときも、じっと考えているときも、神はあなたの全てを知っておられる。それは頭の中、心の中に及びます。

すなわち、思い、考え、動機、計画、感情を読み取って、理解して、悟っておられる。

神は全能でありますが、それは神が自分で成そうと思ったことは何でもできるという意味で、自殺とか罪になることはできません。なぜなら神にはその意志がないし、自身の性質に矛盾するからです。だから出来ないこともあるのです。

神は無限で偏在されます。神は無限で極めることの出来ないお方で、時間と空間を超越しているかた。

そして、神は霊でありますから万物を超越し偏在される。神は万物の上にあり、万物を貫き、万物の内におられる方。

もちろん、万物の上にあると言っても、汎神論ではありません。汎神論は神と万物を一体としてみていますが、聖書の神は万物を創造し超越した唯一の方ということです。

神は永遠で不変とは、神は時間を超越、はじめなく終わりの無い方。聖書では、「一年は千年のようであり、千年は一日のよう」と表現されています。

神が聖なる方と言うときは、神は被造物の世界を超越し、離れておられる方を意味する。人間は被造物で穢れていて罪なる存在ですから当然そうなります。

神は義なる方とは、人間との関係で、常に正しい態度をとられるということ。正しい態度とは、罰すべき者は必ず罰し、赦すべき者は必ず赦してくださる、ということ。

このことを聖書には、「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちを清めてくださいます」と書いてあります。

神は真実で正しい方であるから、神が義なる方であるから、人が罪を犯せば罰せざるを得ないが、悔い改めれば必ず赦されます。たとえ、ヒットラーでも。

神は愛ともいいます。神の愛は、旧約聖書にあるような罪を厳しく誡める単なる厳父でなく慈母のような方でもあると言われています。「母が子を慰めるように、わたしはあなた方を慰める」。

また、「わたしのはらわたは、彼の為にわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」と、神は罪におぼれる人々を、断腸の思い出みられている。

聖書の神は、唯一の御子イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架にかけ、過去・現在・未来のすべての人類の罪を贖われました。それも無条件にです。何の資格も要りません。これほど大きな愛はありません。

神の性質についていろいろと書きましたが、使徒パウロも神の性質につき次のように言っています。

ローマの信徒への手紙1章20節「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」

つまり万物を造られたのは神ですから、自然界を支配している寸分の狂いもない物理法則とか、人間のからだの構造とか良心とか、もちろん自然界に満ちる多様性に富む生命もです、これすべて神が考えて備えられたもの、造られたものです。

ならばそれらのものを知れば神の性質が分かると言えないでしょうか。被造物を知れば創造主がわかる。これ当たり前のことだと思います。そのことが分からないのは、人間の罪(神からの離反という)が原因だと思うのです。

随分前にある本を読んだ時に神の性質について次のように書かれていました。正確ではないのですが、覚えている範囲で書いておきます。

宇宙創成以前より、永遠の言葉(ロゴス)は存在していました。この方を通して生物、無生物のすべてが生まれました。生命あるもののみが生命を生むことが出来るが、その生命の本源は神であります。

神はその創造力によって、無生物としての人間を創造し、その中に神は命の息を吹きこまれ人は生きる者となりました。

神は自身完全でありますが、それでも創造されるのは、創造そのものが神の性質だからであるからといえる。神が生命をお与えになるのは、生命あふれる神の力と活動の本質そのものであるからといえると思います。

神は今、新しい天地と、新しい生命の創造を御計画されている。そのために、イエスはこの世に来られた。

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