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2008年11月17日 (月)

聖書と人生

五十過ぎでイエスと出会い、それから十数年イエスを知ろうともがいています。もっと、早く出会えればよかったかも知れないけれども、この出会いが、神様が用意して下さった最善の出会いと思いたいし、またそうであると思う。

人類の歴史で、不変なものといえば何があるでしょう。わたしが知る範囲では、聖書しか見当たりません。
少なくともこの2000年の人類の歴史は、それを実証しています。2000年の歴史が実証していれば、八十そこそこしか生きられない人間にとって、それはもう不変といっても問題はないでしょう。

人間はこの世に生まれたときは、どのような子供も可能性は100%。子供が、何のために勉強するの、と質問したら、大人になったときの可能性を広げるため、と応えるのがわたしは最善かとおもいます。


勉強すれば可能性は広がる、そのように信じれば希望が持てる。いまの辛い勉強も耐えられるかもしれない。
今の社会の仕組みというかルールからはみ出せば、可能性はどんどん減ってくる。

年をとれば、これもまた可能性が減ってくる。どんどん減ってくる。でもゼロにはならない。どんなに道から外れた人生を送っても、可能性はゼロにはならない。

だけど、道の外れ方により、やり直すためには大変な努力が必要になるのも事実です。社会の仕組みがそうさせるのです。

敗者復活戦はなかなかむつかしいが、一流になれなくても決して送ってきた人生はマイナスにはならないと思う。

人生は結果よりも経過が大切と思いますから、社会の仕組みが可能性を狭める場合が、非常に多いと思います。

だから、社会からほめられることを考えなければ、気持ちはぐんと楽になります。人生は、自分の為の人生ですから。人のためにする人生でも結局は、自分のための人生ですから。

人間の社会は、人と比べてなんぼの世界でありますから、他人は他人自分は自分といっても、社会の仕組みがなかなかそれを許してくれないのも事実です。そのために、妥協が必要になり、忍耐が試される。

社会から褒められるということは、所詮、無常なる価値観からくるもの、そのような、いつ変わるか分からないものに一喜一憂しても意味はありません。

といえば簡単ですが、わたしも人間、他人から褒められれば嬉しくなるのも事実です。

イエスが「隣人を自分のように愛しなさい」といわれるのは、その人の人格を、存在を認め大切にしてあげなさいということだと思います。

褒められるということは、自分の存在を認めてもらったということです。ある意味、人生はそのことのために生きているようなものだと思います。

齢六十になっても可能性はゼロにはならない。年をとれば、頭が固くなり、新しい事は覚えられない。誰かが言っていました、新しい事は覚えられないけれども、やってきたことの応用と物事への正確な判断は若者には決して負けないと。

やるべきことには最善の時がある。その時を逸しても取り返しのつくこともあるが、取り返しのつかないこともある。取り返しのつかないことでも、気がついたときからやれば、最善ではなくてもそれなりに出来るものだと思います。

わたしたちの人生は、八十年そこそこ。少々出発が遅れても、十年も続ければ、大概のことは物になる。人間がこの世でするべきことで、100年も200年もかかるようなものはない。よく出来ています。

物事には、結果よりもその過程が大切だと思えることが大いにあると思います。

その人を鍛えるのは、熟成させるのはその過程だと思います。単純なことでも、一つのことを一生懸命やっていれば、きっとそこに何かを見つけることができる。

たとえ聖書という不可思議な書物でもそこに大発見があるかもしれません。それはなにかというと、物事の真理を求める本性ということでしょうか。

聖書に出会うのも、やはり若いときが最善と思えます。年をとると、どうも素直になれなくて困ってしまいます。事実を見れば、歴史を見れば疑う余地がないのに、聖書は、少なくともこの2000年間は不変でありました。

あなたは聖書に書いてあることを信じていますかと問われて、否定できないのです、と応えるこのもどかしさ。それでも硬い頭を抱えて一生懸命聖書を読む。

そこに何か見えてくるものがないかと期待しながら、その努力は十年間続きました。それでも、聖書を読むのをやめますか、と問われたら即座に、それはできません、と応えられる。

おそらく生涯、その努力は続くでしょう。この根気は、おそらく未知の物を求めるというか、ここに物事の真理があるかもしれないという本性がそうさせるのでしょう。

出来ることの可能性は少なくなり、老化した、物事への感心が薄れたこの心を輝かせることのできる何かがそこにあるかもしれない、と思っています。わたしの人生を賭けて、一生懸命になるだけの価値がそこにあると信じています。

聖書には、「年を重ねると喜びはない」という聖句がありますが、たしかに、野球をやることの喜びはもう味わえませんが、人生を知ることの喜びは、最善の時ではないかもしれませんが、まだまだ機会があると思います。

最終バスに慌てて乗り込んだような気持ちですが。

本当に思うのですが、年をとれば、一生懸命になれることが少なくなります。感動することが少なくなります。

そのためには、若者の数倍の努力が要ります。これは事実です。若いときにしたことのあることなら、比較的容易に再挑戦することが出来ますが、年をとってからの新しいことへの挑戦は、大変な努力が要ります。

また、一生懸命になれることもなかなか見つかりません。それでも、若い時にしていたことに再び挑戦するのは、まだやさしいかも知れません。

だから、若いときにしたいと思う事は何でもしておくべきですね。

もちろん、勉強もです。途中で何かの事情があってやめることになっても、年をとってからまた始めるときには役に立ちます。子供からなぜ勉強するの、と聞かれたら、人生の可能性を広げるためです、と応えたいと思います。

このおじさんも、パソコンを覚え、携帯を持ち、ブログサイトをもち、エクセルを覚えて株式投資のテクニカル指標を作っています。さあ、次は何を始めましょうか。

あ、それから健康のためにスポーツ自転車を買ってサイクリングも始めました。

今日の聖句、「誇らしめの杖は知恵を与える。放任されていた子は母の恥となる」、旧約聖書箴言第29章15節。

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