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2008年10月 8日 (水)

変わらないもの(2)

日本という国は、何が真理かを教えない国だと思います。何事もあやふやなままでおいておく灰色の国。

だから、いま日本社会で問題になっている、援助交際、覚せい剤、親が子を殺す、子が親を殺す、猟奇殺人、集団暴行、学級崩壊、自殺などがなぜ起るのか、その理由を聞かれても、青少年補導係も、駆けつけた親も、そして社会も答えを見つけることができない。

なにを根拠に導けばいいのか分からない。ただ悪いと言うだけで、法律に違反しているからと言うだけでは若者は納得しません。

その一方で、そういう犯罪者を含めて、人間は、心の片隅で、なにか永遠なものを求めているがそれを知ろうとしない、なぜかといえば、永遠不変なものがあるということを普通のこととして教えていないから、特別なものと思い、面倒くさいとか、胡散臭いものとしてかかわろうとしない。

しかし、心の奥底では、消滅しないもの、変わらないもの、すなわち、不変の価値尺度、何が真理かを知りたがっている。だから、頭のいい若者が、新興宗教にはまるのではないだろうか。

消滅しないもの、変わらないものを知りたい、だが、その答えが見つからない。誰も教えてくれない。

そういう状態で、若者が突然大人の世界に入り、大量の情報を与えられたりすると、何がよいのか悪いのかわからなくなって、つまり、価値判断基準が全く見えなくなって、生きるべき方向を見失う。

哲学の主題である、真・善・美そして聖。何が真理か、何が善か、何が美か、そして永遠なるもの、不変なものは何か。

これをきちっと教えていたら、もう少し違った国になっていたかもしれない。指導する者もそこに物事の基準を置けば答えやすいと思います。

もちろん、そういう教育が出来ていない者にそういうことを説明しても、受け入れないだろうと思います。

永遠なるもの、不変なものは、聖書に書いてあります。しかし、そういう教育をしていないから、宗教は特別なものとしてしか扱われない。生きていく上で必要な当たり前のことと見られていない。

だから、日本のクリスチャンは未だに人口の1%と聞きます。

いや、もっと少ないでしょうね。一向に増えません。教会側にもおおいに問題があるのかもしれません。教会も、自分は正しいという前提で現状をとらえていたら何も解決しないと思います。

法律違反だからやってはいけない、だがその前に社会規範があります、良心もあります、根本にわれわれを創造した神の教えがあります。

人間は、創造主を知り、創造主を恐れることが必要だと思います。恐れることにより謙虚になり、相手を思いやることが出来る。人間が中心なら争いはたえません。

行動の規範が、人間とか法律なら、誰も見ていなければ、人に知れなければ何をしても良いという思いをもちますが、絶対者が見ているとなると、いつ何処にいても見られているという恐れ、そのような気持ちは起りません。何が真理かを確り持って現実を生きる知恵が必要ということだと思います。

永遠なるもの、不変なるものを知らずして人格が形成されたらどうなるのだろう。権利ばかりを主張する、強ければいい、弱いのはお前が悪いから、いわゆる傲慢がはびこらないだろうか。

弱者に目の行かない、人間はお互い助け合って生きていると言う事実を無視した行動が、自分だけがよければいい、強ければいい社会にならないだろうか。

いまや日本では全盛期の進化論。学生の頃に習った、アメーバーが進化して人間になるというあれです。進化は、強いもの、優秀なものが生き残り、弱いものが淘汰される考え方です。

NHKテレビの科学の番組を見ると、進化論を前提に番組が編成されています。まるで、他の考え方がないように。

わたしは、進化論が正しいとは、まだ決まったわけではないし、証明されたわけでもないと思っています。一方的な教えは、偏った考えの人間を造ります。

学校教育がこれでは、強いことが正しい、勝てば官軍と思っている人(ライブドア事件などはそのあらわれでしょうね)、弱い者をいじめて優越感を持つ人(学校でのいじめとか少年によるホームレス殺人事件など)、何億円もかけて結婚式をあげる芸能人、このような人間が出てくるのは当たり前ではないでしょうか。

このようなことを書けば、人に迷惑をかけているわけでなし、自分のお金で何をしょうが勝手でしょ、といわれそうですが。

勝組みとか負け組みという価値判断基準も、進化論の考え方に通じるものがあります。お金を儲けるのが上手な人間は勝組みでお金を儲けるのが下手な人間は負け組みということでしょうか。

勝組みと言われる人が、マスコミに一流の文化人のごとくもてはやされて、自分は強い、自分は優秀だと思ってしまったら、人格の形成はどうなるのでしょうか。人格の形成は、自分が無力であることを知ることから始まると思うのですが。

同じ文化人でも、科学とか芸術の世界で何十年も、人に目立つこともなく日々研鑚されている多くの人々のことを考えると、マスコミの態度は余りにも節操がなさ過ぎはしないかと思われます。

勝組みとか負け組みということ、つまりお金を儲けるのが上手か否かで人間を価値判断して満足している人々の思考は、なんとまあ単純で、薄っぺらで、さもしいと思いませんか。

この人間社会は、また人間は、そんなことで決め付けられるほど単純ではありません。傲慢になれば、物事の真実が見えなくなる。

わたしたちは、自分の命一つどうしょうもできない、無力な存在なのですから。もっと、真摯になるべきではないでしょうか。

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