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2008年10月 2日 (木)

変わらないもの(1)

日本国憲法第九条を読むと、国際紛争を解決する手段としては、戦力を保持しないし交戦権を認めない、となっています。

正当防衛ならどこの国にも許されている固有の権利で、憲法が認めていようがいまいが合法だと思うのです。だからそのための戦力は保持できるし交戦権も認められている。

しかし、現在の世界情勢を見ると、国家として十分な活躍をしょうとすると、自衛隊の海外派遣が必要となり、憲法上非常に無理が生ずる。国際平和のためなら海外派遣も合法とする必要があるということでしょう。


憲法改正で最大の問題は、集団的自衛権だと思います。国際法上は集団的自衛権の保持は合法であります。

ところが日本は憲法で交戦権を否定しています。もちろん、解釈で集団的自衛権の行使も禁じています。だけど憲法よりも国際法が優先すると思うのですが、そこに矛盾があります。

この矛盾を解決するには、集団的自衛権を認めて法律で行使に制限を加えるという方法しかないのではないでしょうか。

憲法が交戦権を放棄しているから戦争に巻き込まれないというのは幻想だと思います。攻めようとしている国が、相手国の憲法が交戦権を放棄しているから責めないということなどありえるでしょうか。

自国にとって必要であれば攻めるのではないでしょうか。攻めてくれば、わが国も全力を持って戦うでしょう。多額の税金で自衛隊を持っているのはそのためでしよう。

国を守るには、軍隊も必要ですが、国家戦略とか対外国との政治力も大切な戦力ではないでしょうか。政治力といいますと、日本の政治には物事を判断するため確固たる思想がないと思うのです。そのように見えます、そこが問題だと思います。

今、アメリカが侵略されたら日本はどうしますか、見ていますか、やはりできるだけ支援はするでしょう。

そうでないと、アメリカもいざと言うときには日本を助けてくれません。いざと言う場合、わが国の憲法は交戦権を否定していますから援助できません、といってだまってみていますか。

まあ、後のことを心配せずに、それでもいいや、と開き直ってしまうのも一つの手ですが。日本人の悪い癖で、余り深く考えない、深く考えるのを避けるのですね。物事が起こってから場当たり的な行動を起こす。いつものことです。

自分はいつまででも子供のように保護されたい、しかし、代償としての義務は負いたくない、こんなの通用しないと思うのですが。といっても、私が戦争を奨励しているわけではありません。

人類には戦争が絶えないのは事実ですから。これは人間の罪深さと、サタンの影響のもとにある世界の現実だと言いたいだけです。

どのような戦争も、たとえ正当防衛でも武力行使も認めないなら、日米安全保障条約を解消し、自衛隊を解散し、
経済規模を小さくし、貿易も縮小し、世界の中で目立たない、何の価値もないと思われる存在として、ひたすら他国の善意に国の運命を委ねて生きていくのも一つの方法です。

覇権主義の国があるので、現実にはそうもいかないと思うのですが。自国の安全を他国に委ねるのは、国家とはいえません。事実上無理だと思います。

それがむりなら、外国と対等で渡り合って行くために、自国を守るための軍隊をもち、国家戦略をもち、政治力をもつことが必要だと思いますが、どちらにしても、絶対に安全な道がない以上、何等かの決断をせざるを得ないでしょう。

といっても、特定の国と安保条約を結んだままでは問題があるので、安保条約を破棄し中立を宣言すれば如何でしょうか。永世中立国スイスのように。

しかし、アメリカの世界戦略にここめで組み込まれた日本の現状ではそれも簡単ではないでしょう。

どちらにしても、戦争はしないほうが良いと思います。たった数発の銃弾で戦争がはじまることもあります。

人間はそれほど聡明ではないと思います。戦争から得られる意義もあるでしょうが、その意義を一つでも認めたら戦争を容認してしまう事になる。

今の日本はどちらともいえない中途半端な状態です。だから顔の見えない国と言われるのですね。

それもこれも日本民族の意識に、政治に国家としての不変の思想がないからではないでしょうか。日本人の世界観に永遠不変な存在という思想が入る、そのとき、日本民族の精神、意識に「芯」が入ると思います。

これまであたかも西欧人の専売特許であった、世界を見る大局観も、身に付くと思うのですが。

決断力も、正義を通す精神もみんな同じだと思います。

いま、わが国における社会問題のほとんどは、この国家としての不変の思想が欠如していることからきていると思うのです。

だから、問題が起これば右往左往するだけで、対処療法しかしない。物事の判断基準をもたないからどうしてよいか分からない。

今の政治家を見ていると、非常に失言が多く、同じ党でも言っていることが各人で違うし、ころころ変わります。これをみていると「芯」がないということがよくわかります。

人には人生観があるように、国家も確りとした世界観、歴史観を持つべきだと思います。

そうしないと、長期的な戦略はもてないと思うのです。確固たる思想がなくても、アイデンティティなどなくても今まで生きていけたのは、世界からみれば、日本はまだ子供であったからではなかろうか。

世界第二位の経済大国になった日本も、新しい革袋を作る必要に迫られていると思います。そうでなければ、大国となった日本が、世界とかかわりなく生きていくことは難しいでしょう。

絶対に変わらないもの、不変なものを日本民族の思想としてもてれば、それらの問題の殆どは、解決するのではないでしょうか。

しかし、そういうものが見つかったとしても日本民族の心に深く根付かせるためにはずいぶんと時間がかかると思います。

本当の意味で日本民族が共有しなければ意味がありませんからね。それができれば、少しは安定した、信頼される国になると思うのですが。

かつての日本が、天皇とか神道にその民族の「芯」の役目を求めたようですが、失敗しました。なぜならそのようなものは、不変ではないからだと思います。

神道にしたって、神道の神の存在論ははたしてあるのでしょうか。いわゆるその神は、創造主ではないし生きている神でもないし唯一でもない。それでは無理ですね。

どこかで、読んだのか、聞いたのかは覚えていませんが、哲学の主題で、人間がものごとに価値を認める場合の究極的な基準は、真(真理)、善(相対的でなく絶対的な良さといえるもの)、美(事物や事象が備える固有の性質であるとする存在論的把握として)の三つだと、確か記憶しています。そして、「聖」が三つを統轄すると覚えています。

それは「まこと」なのか。それは「善きもの」であるか。それは「うつくしい」か。これに照らして、物事の価値を判断していくということでしょうか。

そして、この「真理」というものの本来の意味は、「変わらざるもの」です。聖書は、その「変わらざるもの」を指し示しています。

欧米文化は、聖書文化圏なので、「変わらざるものは存在する」、真理は存在すると考えています。具体的には、それは万物を創られた創造主としての神ということです。

そして「善」とは相対的でなく絶対的な良さといえるもの、つまり、この創造主としての神の意向に従うことであります。だから、創造主としての神の意向に沿わないもの、反するものが悪だということになります。

永遠なる存在の意味(存在論)は、聖書に具体的に述べられています。善の内容も具体的です。

では、「美」とは何か。美感とは、そもそも、存在物の神秘なところを認識したときに人が受ける感動。

それを表現する媒体は、自然であってもいいし、絵画や彫刻のような造形物であってもいいし、音であってもいいし、文字であってもいい。

では、ものの本質とは何か。真善美の三つを包含したもの、つまり「聖」、聖書ではそれは、変わらざる存在、創造主としての神ということになります。

だから、美とは、それを表現するところのものとなるのです。つまり、善、も、美も、「変わらざるもの」、すなわち、「真理」を基礎においている。

すなわち創造主としての神がすべての基盤になり、芯になっている。考え方はこれでいいのでしょうか、間違っていればすみません。

人間は、創造主を知り、創造主を恐れることが必要だと思います。恐れることにより謙虚になり、相手を思いやることが出来る。人間が中心なら争いはたえません。聖書の教えを信じる国家間では戦争は起りません。

といっても、キリスト教を国教とする国、創造主を知った国でも争いがあるではないか、と言われそうです。

それはその国を導く者の信仰の問題だと思います。信実、国を導く者が聖書の教えを正しく信じていたなら、神の教えを正しく信じていたなら戦争は絶対に起りません。

聖書では、神の教えを間違って信じている指導者を偽善者といいます。約2000年前にキリストを十字架にかけたユダヤ民族の指導者もそうでした。

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