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2008年9月 1日 (月)

希望について

人間は、どのような状態にあろうが、生きている限り希望は捨てられないのではなかろうか。希望を捨てたら、その人の人生は終ってしまうのではなかろうか。最悪の状態にあるとき、一時的に絶望することがあるとしても、やはり心の奥底では希望をもっているのではなかろうか。

少し状態がよくなれば、希望がむくむくと頭をもたげてくる経験はよくあることです。人間として生きている限り、どのようなときにも希望は捨てられないと思うのです。
希望というのは、人間にあっておそらく動物にはないものだと思います。それは次の聖句の通りです。


旧約聖書コヘレトの言葉第3章11節「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」。

わたしたちの心は、神を慕うように造られているのです。神は人間にとって希望なのです。

だから希望は人間がもつ根源的なものだと思います。恐らく動物は希望を持たないと思います。これも創造主である神が人間に与えた恵みと言えないでしょうか。

希望とは、遠い先に見える光のようなもの、目の前できらきら光る光は希望ではない。だから、信仰を持つということは希望を持つということだと思います。

人間は希望を持つから、そのために苦しむこともあるが、その苦しみもわたしたちの人生にとってきっと意味があるのでしょう。

新約聖書にもこのような聖句があります。

ローマの信徒への手紙第5章3節、4節「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」。

人生には苦難はつきものですが、それに耐えれば練達を生む、つまり、試練によって身についた能力とか性格及び熟練が希望につながることを約束されています。だから希望は神様からの贈り物と言えます。

若い頃は、わたしなど自分の人生に必ず終わりが来るということなど考えしなかった。いや、理屈では分かっているが、実感として捉えることが出来ませんでした。

これは若者としては当たり前でしょうが、人生に終わりが来るのは明日かもしれないし三十年後かもしれないけれど、自分はいつまででも生きるような気持ちで、十年二十年先に希望も持って人生を送っていました。

といっても、それは正常な状態で、若いときから死ぬことばかり考えているようでは、やはり精神状態がおかしいと言えないでしょうか。

わたしは、自分が五十歳を迎えた頃から、ちょっとした心の空白感に襲われました。これからどうして生きていこうか、これで良いのだろうか、そのことばかり考えていました。

そのときには、それまでの人生の価値観、つまりお金とか財産とか地位とか名誉を得ようとすることに対する執着心がすっと抜けました。それらを求めることに、意味を見出せなくなったのです。空しくなったのです。

そのとき、同時に人生の終わりが近づいてきたと、何となく実感として感じたのですね。

わたしは若いときから、いつも希望を持つことを意識して、努力すれば希望は成就すると思って生きてきましたから、五十を過ぎて、さてこれからどうして生きていこうか、希望を何に求めて生きていこうか、ということになるのです。

このようなときに、わたしはキリストと出会ったのです。

老年になれば生甲斐を見出せるかどうかという問題は、未来に対して希望を抱けるかという問題に尽きると思います。

幾ら歳をとっても、希望は人間の心に植え付けられた根源的な衝動だと思いますから、わたしたちに、活力、創造性、勇気、そして喜びをもたらせてくれます。希望なくして、人間的な生活を送るのは不可能だと思います。

悲劇的な体験は、一生涯立ち直ることが出来ずに、人生から希望や喜びを奪い、残りの生涯を恨みの中に閉じ込めてしまうこともありますが、その体験から新たなアイデンテイテイを獲得し、希望につながれば、同じ体験を建設的に活かして、他人の苦悩を深く共感できる豊かな人格を持つ人間に成長できる可能性もあるとおもいます。

希望の対象となるものは、人生の段階に応じて様々です。

青年期、中年期には具体的な対象があり、また努力すればどんなことでも実現できるように思います。

それらの希望は具体的で、つまり、あの学校に行きたい、あの会社に就職したい、部長になりたい、家を建てたい、このくらいお金が欲しい,誰それと結婚したいなど経済と人との相対的な問題が殆どです。

老年期に入ると、実現できることと出来ないことがはっきりしてくるし、実現したことでも空しさを覚えるようになります。

わたしの場合は五十歳くらいから希望の対象は質的に変化しました。心の内に希望を求めるようになり、求める対象をみる価値観が変わってきました。人生を見る目が変わってしまったのです。

この世にあって価値のあるもの、つまり財産とか、地位とか、名誉などでは心の空虚を満たすことは出来ませんでした。人がそういう話をしても、それがどうした、という感じで冷めてしまったのです。

体力の衰えを覚えて、人生の終わりまでの時間を計算するようになり、次の世に持っていけないものを追い求めてきた自分の人生が空しく思えてきたのです。

もちろん、それらを得るための努力も全て徒労に終わっていたのも事実です。

哲学者マルセルは、希望を、日常的な希望と、根源的な希望に分類しました。日常的な希望とは、前記したように日々の生活の具体的な目標をいい、根源的な希望は、難しくいえば人間の存在価値とかあり方それ自体に結ばれている希望をいいます。

問題は根源的な希望ですが、それは、人は未来に対して楽観的、肯定的な態度で臨むかどうか、要するに希望の人であるかどうかということではないでしょうか。

老年に於いても日常的な希望が全く無くなる訳ではありませんが、大切なのは、度重なる失敗にもかかわらず、過去の人生をすべて丸ごと意味あるものと捉え、そのうえで未来を肯定的に捉えることができるかどうかと言うことだと思うのです。

それは、色々な経験を積み重ねることによって得られる成熟した人格から得られるものだと思います。

聖書では、イエスの十字架と復活を信じる信仰をもって、次の世に臨むことを求めております。

イエスの約束の言葉を信じ、信仰を持って次の世での復活と神の国への希望を確信できれば(またそれが出来るように、人間には動物と違って「永遠を思う心」が与えられていますので)、その時に、死もまた苦難から解放されることへの喜びと変わると思うのです。

聖書では、それらの働きはすべて聖霊の働きによると言うことなので、決して自分の努力のみでできるものではありません。人生は神と人間の共同作業で新しい人間を創造する場なのですね。

使徒パウロはそういう生き方を、信仰(神への)と希望(来世への)と愛(人間関係)に生きると言っています。

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コメント

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

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