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2008年8月21日 (木)

新しい革袋の喩え話

人生は、幼年期、少年期、青年期、壮年期、老年期、そして、入学、就職、離職、結婚、離婚等々節目があります。

人は、一生という成熟プロセスの中で、その節目に於いて一つの段階から次の段階に移行するという体験も大切な訓練といえるのではないでしょうか。加えて、現役リタイア後の人生(第三の人生)という節目の捉え方もあります。

人生で、一つの節目を終わり、新たな段階を迎えようとするとき、わたしたちはいつでも前の段階に属する多くのものを失うという辛い経験をしますが、そうすることで始めて次の段階にふさわしく生まれ変わることが出来るといえないでしょうか。聖書にはこのような聖句があります。

新約聖書マルコによる福音書第2章22節、「だれも、新しいぶどう酒を旧い革袋に入れたりしない。


そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ」
新しい葡萄酒はまだ発酵を続けておりガスを出している。

そのような葡萄酒を、弾力を失い硬化している古い皮袋に入れると、ガスの圧力で皮袋が破裂することがある。

新しい葡萄酒は弾力性がある新しい皮袋に入れなければならない。これも聖書の時代の、水や葡萄酒を羊の皮で造った袋に入れて遊牧した民の生活から生まれた知恵であり格言であるといわれています。

さて、この革袋に組織とか制度を当てはめてみますと、わたしたちは、新しい段階を迎える都度、その新しい段階に新しい組織とか制度を必要とします。

いつまででも過去の旧い組織とか制度から抜け出せずにいたら、旧い組織とか制度は新しい環境に耐え切れなくなって壊れてしまいます。

つまり、新しい働きは、古い制度や組織から離れてはじめて行われることだということです。古い制度や組織に新しい働きを入れようとしても、その働きがだめになってしまうだけでなく、古いものもだめにする、ということです。

そこに必要とされているのは、柔軟性であり、状況に応じた対応と、開かれた心が要求されています。一進一退であまり改革の進まない今の政治状況をみるとよく分かります。

逆にいえば、組織とか制度を旧いものから新しいものに取り替えなければ中身を新しい働きになじませる、成熟させることが出来ないということになります。

新しい段階に進むときは、旧い組織とか制度をセミが脱皮するごとく脱ぎ捨てなければ、いつまででも慣れ親しんだ革袋にしがみついていれば、中身である自身の人格の成長は適いません。下手をすると、腐ってしまいます。

でもわたしたちは臆病で、慣れ親しんだことは居心地がいいから革新が必要と分かっていても無意識のうちに必死でしがみつこうとします。新天地にのりだす勇気をもてないことがよくあります。

新天地に乗り出せなくては、新しい働きが出来なくて、人格の成長もありません。頭の中では良く分かっているのですが。

わたしたちは、何もしなくても歳をとります。新しい段階に嫌でも進むことになります。どうせ新しい段階に進むのなら、新しい段階に自ら挑戦してみるのもいいかもしれません。

今のわたしは、この現役リタイア後の人生に入りました。いまさら過去のいいかげんな人生を悔やんでも仕方ないので、この現役リタイア後の人生を有意義に過ごしたいと願っています。

いま必死でいろいろ模索していますが、人生最後のチャンス、時間も余り残っていません。ですから考えるのも程ほどにして行動を起こさなくてはと思っています。

聞いて見ると、リタイア人生は、いろいろですね。続けて働く人もいれば、ボランテイア活動に精を出す人もいる。地域活動に精を出す人もいる。ただ、何もすることがない人生だけは避けたいと思っています。

何もしないで暮らすには、余りにも長すぎます。まだ、十分新しいことを始める時間と気力は残っています。

わたしは、若いときから自分で仕事を作るのが上手かったので、その心配はないと思っていますが、さてどうでしょうか。

いつまででも新しい段階になじめなかったら、例えば、壮年期になったのに、精神は子供のままということにもなりかねません。

心身がアンバランスなままでは、人格の成長は望めません。理想かもしれませんが、人間として成熟して死を迎えたいと思います。

周りを見回すと、幼年期をきちっと卒業したか疑わしい高校生もいます。知識は大学生でも情緒的には未成熟な人もいます。成熟したと思われる大人でも、人格を確立できていない人もいます。

人はいろいろですが、以前の段階で慣れ親しんだものに必要以上に執着すると、どうしてもそれらを手放すことが出来ず、結局は、人生最後の現役リタイア後の人生(第三の人生)で、人間としての成熟と、死への心構えが未熟なまま終わることにもなりかねない。

わたしも、心しなければならないと思っています。希望はどの段階にもあります。

第三の人生では、希望は次の世に託することになりますが、過去の統計から、安らかに死に逝く人は、最後に、世話になった人に、有難う、と言って、希望を次の世で親兄弟とか親しかった知人に再会できることを楽しみにして死んで逝く人が多いということです。

人生の最後に、世話になった人には有難う、といいたいですね。

そして、古い革袋をきっぱり脱ぎ捨てて新しい革袋に希望と夢を持って飛び込みたいと思います。

でも、本当は死が目の前に迫ってきたときに、そのようにすぐに対応できるものではなく、その準備がこの世においてもう始まっているのですが。

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