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2008年8月 4日 (月)

人の心から

キリスト教では、人には原罪があり、原罪から派生する思いの罪があり、思いの罪から派生する行いの罪があると教えます。

これは自分の心の奥底を、潜在意識を覗いてみればよく分かると思います。困っている人を見るとき、人は助けてあげたいという自分の理性とは別の思いを潜在意識としてもっていることはたびたびあります。

「人の不幸は蜜の味」という諺があります。自分は、絶対にそのようなことはありませんといってもダメです。それが原罪を背負った人間の本性ですから。


もちろん、神様との交わりを大切にしているクリスチャンでも同じで、イエスの教えと現世を生きる現実の自分との葛藤の連続です。現世で生きるクリスチャンの宿命です。

現代世界では、人種とか身体的障害とか職業とか財産とか地位とか身分とか人の外面に属する事情で、人を判断し、差別し、交わりを拒否することはいくらでもあります。

そういうことではいけないと誰でも分かっています。でも自分の意志ではどうしょうもない、拒否するとか避けようとする罪への誘いがあるのです。イエスは言われます。

「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」。       (新約聖書マタイによる福音書 15章11節)

もう一つ御言葉を見てみましょう。
「人から出てくるものこそ人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」、(新約聖書マルコによる福音書7章20節から23節)

まったく、そのとおりです。人を汚すものは、心に渦巻く悪い思いであります。わたしたちの心は泥が底に沈んでいる水のようであると表現されています。

平常なときは、わたしたちの心は透き通った水のようにきれいに見えます。しかし、何か事が起こると、わたしたちの心はかき回されて、底の泥によって全体が濁ってしまいます。

わたしたちは、戦争の話を聞いて、人は何でこんなに醜くなれるのだろうか、と思います。また、テレビや新聞で殺人事件を知り、なんて酷いことができるのだろうと考えます。

しかし、全く同じような悪が実は自分の潜在意識として心の奥に潜んでいます。必要な条件がそろったら、自分も同じことをする可能性は十分にあると思うのです。誰も否定できないと思います。

人を汚すのは、人の心の中から「さまざまな邪悪な思い」が出て来て、それが「人を汚すのである」といわれています。

ここで人間の内側から出て来る「さまざまな邪悪な思い」の一覧表が挙げられていますが、言葉をもってなされる悪(欺き、誹り、愚痴)も、身体をもってなされる悪の行為(不品行、盗み、殺人、姦淫)も、すべて心の内にある悪の思いの現れとして扱われています。

口からはいる物は神様の造られたもので、何を食べても人を汚すことはない。「口から出て来るもの」、すなわち

「人の中から出て来るもの」が人を汚すのである、といわれる。口から出て来るものの第一は言葉であります。言葉は人の思いの中から出て来る。つまり、先に書いた原罪から派生する思いの罪からでてくるのです。

自分は清い、立派だと自負する人が他人を軽蔑し差別する言葉を発する時、それはその人の自己中心、傲慢な心から出て来ています。その傲慢な心こそ神が最も忌み嫌われる「汚れたもの」であります。

人間の悪は言葉であれ行為であれ、すべて心の奥底から出て来ます。それは人間が神から離反し、人間の潜在意識をサタンの支配に委ねたからだと言えます。

神の清さと栄光に値しないものにしています。心から出てくるものが善いものだけという人間はいないからであります。「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」、ということです。

杯の外側を清めて内側を清めない者は愚かである。人間は外面の行為を立派にすることによって心を清めることはできない。外側を立派にすればするほど、心は自己中心からくる傲慢という本質的に人間がもつ悪に陥るものであるといえます。

人間の心を清めることができるのは、神との交わりから来る御霊だけであるということです。神の御霊に潜在意識を支配してもらうのです。

御霊から出て来る信仰と愛と希望だけが清いものであって、神に喜ばれ、人と人との交わりを完成するということです。

イエスのこの言葉は現代世界にも語りかけています。「皆、わたしの言うことを聴いて悟りなさい」と。

それでは、この醜い心からわたしたちは救われないのでしょうか。そう、「人間にできることではないが、神にはできる。(新約聖書マルコによる福音書第10章27節)」とイエスは言われます。 

それは、神の戒め、神のみ言葉であります。神のみ言葉に出会い、そしてキリストの十字架にすがるときに、わたしたちの心は清められる。

イエスの言葉を信じて、心に留めて生きていれば聖霊がその人に降りあなたの潜在意識を支配し、あなたを清め導いてくださるということです。

ここに初めて、マルコの福音書第12章30節の、「第一の掟は、・・心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。

第二の掟は、これである。隣人を自分のように愛しなさい。」、が現実のものとして完成するのではないでしょうか。

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