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2008年8月14日 (木)

限りある生を生きる

人間の霊魂は本来永遠のものだと言いましても、やはり現世は現世で限りがあります。現世は肉体の死で持って一応区切りがつきます。

永遠の命をどのように生きるかということは、次の世にいってからゆっくり考えることにします。いまから考えていたら、それこそとり越し苦労となるのは必定と判断します。

それでも、この世において知ることができることはできるだけ知っておきたいのが人情です。
さて、人間は命に限りがありますから、助けられている面が大いにあると思いませんか。


どのような悲しみも、苦しみも死ねば終わりです。来世に逝けば、現世での苦しみや悲しみの原因がなくなると思います。まさか現世での苦しみや悲しみまで来世に持っていくことはないでしょう。

そのように思うのは、苦しみや悲しみは、肉体を持つ故、あるいは人間関係からもたらされると思うからです。もちろん、そこに悪魔の働きがあることは無視できません。

聖書では、天国は至福のところだと書いてあります。天国は、簡単にいえば、人が人を愛するところ、自己を捨て人を愛するところということです。

命に限りがあるから、何時死ぬか分からないから、明日ではおそいかもしれないから、人は今を真剣に生きるし、より深く情熱的に人を愛せます。

もし、決して死ぬことがないと分かっていたら、深く情熱的な愛をもてるだろうか。わたしは、時間に限りがあるから、物事に一生懸命になれると思うのです。

若いときは自分が死ぬことなど想像すら出来ないから(命に限りがあることに気がつていても)十年二十年先を見て、希望をもって生きていくことが出来ました。

人生六十年も過ぎると、来世に希望をもつことを考えますが、それは別にして、今を、その日その日を大切に生きるようにもなります。一期一会の心境です。

何かを出来る内に、この世に自分が生まれ生きていた証を残したいとも思います。そのためには健康が必要です。

健康を保つために、毎日食事に、運動に気をつけています。寝込んでしまっては、人に迷惑をかけるだけで、やりたいことがあってもままならなくなります。

このようなことを書くと、そんなに長生きしてどうするのですか、といわれそうですが、長生きの効用もありまして、長生きをして死ぬと、枯葉が落ちるようにごく自然に何の苦しみもなく死ねると聞きます。

苦しんで死にたくない場合は、長生きすべきです。高齢になれば、ガンになっても苦しまずに死ねるそうです。

つまり、ガンに殺される前に老衰で身体が先に死ぬからでしょう。ちなみに、わたしの親父は九十二歳で枯れるように死にました。これを大往生というのですね。

長生きの効用をもう一つ、人は他者との出会いの中で生きるといいますが、出会いがあれば必ず分かれなければならない。

人生山あり谷あり、移ろいやすいのが人生。何一つ普遍なものはありません。このような人生でも、考え方によっては良いことがあります。

人生が長ければ長いほど、それだけこの世の思い出の数が増えるということ。人との出会いも増えて別れも増えます。

それだけ、次の世へ行けば待っていてくれる人が多いということになります。次の世に行けばまた会えると思うと、楽しみが増え待ち遠しくなります。  

長く生きるのはいろいろ効用があっていいのですが、人生の充実という面からみるとまた別でしょうね。

充実した人生というものは、必ずしも長さの問題ではないと思います。人生の質の問題です。九十歳、百歳と長生きしても人と出会うこともなく、人を愛することなく長い年月を重ねても、はたして意味ある人生といえるでしょうか。短くても充実した人生を送る人もたくさんおられます。人生の意義は、人生の長さでは計れません。

もちろん、充実した人生とは、イエスの教から言うと、与える人生、生かされていることに感謝できる人生だと思います。

この与える人生というのは、神様から戴いた賜物を精一杯生かして真面目に働いて富(財産に限りませんが)を得たら、その富は神様から戴いた祝福だから、それを貧しい者とか弱者のために活用することをいいます。

その富は、死んだら次の世に持っていけないものですが、それを貧しい人とか弱者に与える行いはイエスも喜んでくださいますし、そうして培われた心は次の世に持っていけるということです。

そのこともこのことも、健康で、元気に長生きしなければ出来ないことということになります。そして、死に方は、死ぬ一月ほど前に寝込んで、別れを惜しんで、惜しまれて枯葉が落ちるように死ぬのがわたしの理想です。

ちょっとまてよ、百歳も生きたら、周りの親しい人が全部亡くなってしまって、世の片隅でひっそりと死んでいくことになるかもしれません。誰一人葬式に来てくれなかったらどうしょう。

でもいいか、死人には何も分かりませんから。クリスチャンには、一人で死んで行く時もイエス様が一緒に居られます。

人生は、振り返ってみれば短いものですが、来世のための現世として神が備えられたものであるならば、そうです、歓喜と悲哀、成功と失敗、出会いと別れ、和解と敵対、熱き涙と耐え難き苦痛、これらはみなわれらを完成するために必要であるとするならば、その経験がどんなにみじめな結果に終ろうが、この世を支配されている神様が、その人の人生に、必ず益となるようにしてくださる。そう思えば、患難の渦中にあるときでも少しは希望が持てるかもしれません。

人生は、短いといいますが、凡才でも、もし一つのことを継続して毎日行うならば、死ぬまでには一大事業をなすことが出来ると思います。

一生は人間が、一大事業をなすには必要にして十分な時間です。どのような人生であろうが、その人の人生は神が供えてくださったものであることを、忘れないようにしたいと思います。

ある心理学者がいわれていました。通常、人間はもてる潜在的能力の可能性のうち、わずか5%程度しか使っていないそうです。

そして、その眠っている能力を開発する一つの重要な手立ては、人生におけるさまざまな挑戦、つまり患難に応えることだということです。

苦しい挑戦にも正しく応えることによって、道は開け人格的な成長が図られるということです。

限りある人生ですから、そういうことも可能になるのではないでしょうか。永遠に生きると思ったら、いつでもできるから今でなくてもいいや、となりませんか。

わたしなら、きっと何もしたくなくなると思います。それに、一期一会なんて言葉も生まれないかもしれません。人生は、もっとつまらないものになると思います。死を引当でなければ、生は輝かないということでしょうか。

最後に、わたしは苦しい思い出とか悲しい思いでは、時間が経てば薄れると思うのです。不思議に人間は、嫌な思い出は無意識に忘れようとしているのではないでしょうか。

逆に楽しい思い出は何時まででも心に残っていると思うのですが。また、嫌な思い出も楽しい思い出に変えてしまうところもあると思うのです。

辛い思い出ばかりが何時まででも残っていたら、人は生きてはいけません。忘れることができるのも神様の恵みではないでしょうか。

どんなにつらく悲しい思い出も、それが神様の御業と思うから、必ず癒される時が来ると思うのです。

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