神を知らなければ
神様の存在を認めない世界は、強者の世界、強い者が生き残る世界。なぜなら絶対者である神様がいなければ人間がすべてのすべてとなるからです。人間世界での強者は怖い者なしであります。
そのような世界では、弱者は切り捨てられるか強者のおこぼれを貰って生きることにおいてのみ存在できる。恐ろしい世界です。
それこそ、生きる意味、人生の意味は何処にあるのだろうかといいたくなります。たとえ恵まれた健康と知力をもって競争に勝って、全人類の支配権を握ったとしても、その人は自分の死は支配できません。
身体は老化し、衰弱して、死が近づくと、生に執着するのでしょうか。それともあっさりそこで自分の人生をあきらめるのでしょうか。
歴史をみると、人間は、神を知らずに富と権力を持てば手を尽くして長生きしょうと考える。ときには、不老長寿の薬を求めたりする。欲望と言う得体の知れない魔物のとりこになる存在であることがわかります。
人間は、とくに力を持った者は自分の求めるものをいやがうえにも手に入れ欲しがる。その欲望は、留まることを知りません。そして、いったん手に入れたものは何があっても離したくない。
健康と知力に恵まれて勝ち取った果実、それはこの世の価値観でみると成功者の証であります。
せっかく手に入れた成功者の証、そうです勝者の立場という守るべきものがあるから、おそらくその人は現世に人一倍執着するでしょう。その執着がその人を醜くしていることも知らずにです。
そのような人も、神様を知り、この世は次の世の準備の為にあると知れば、何が人生でいちばん大切かが分かるかもしれません。
それらは次の世にもっていけないものばかりです。といっても、競争するのが、努力するのが無意味だということではありません。競争して、努力して得たものは、その人が神様に祝福された証でもあるといえます。
それが分かれば、自分が勝ち取ったこの世の財産とか権力は、人のために弱者のため使うため神様が自分に与えてくださったものだということが理解できるかもしれません。
その人が勝者になれたのも自分の力ではなく神様の恵み故と理解できるかもしれません。
絶対者である神様を認めない人は、次の世などないのだから、神の裁きなど気にすることが無いから、好きなことをして、他人がどのように見ようが、どれだけ困ろうが、自分さえ良かったらそれでよい。
死んだらおしまい。こうして自己満足の内に死ぬのも人生だとおもっておられるのでしょうか。
でも、もし次の世があれば、神様がおられたらその人はどうするのでしょうか。この世の価値観で、自分は優秀だから次の世でもうまくやっていけると思うのでしょうか。
人間を含めこの宇宙の森羅万象の真理がわからないのに、次の世があるかないかは人間には分かりません。そういう人は、次の世が無いことに賭けられたことになります。
あなたは次の世があるという考え方に賭けますか、それともないという考え方に賭けますか。あるという考え方に賭けてみて、好き放題は出来ないが、チョッピリ生き方を我慢して、次の世に夢を託して死ぬのもいいと思いませんか。
信仰は、次の世に希望をもって人生を生きるためにあります。次の世があるから、この世の人生に価値があるという考え方なのです。
そうではないでしょうか。次の世がなければこの世の不公平、不条理はどうなるのでしょうか。神様が存在しなければ、人生はこの世だけのものです。
人の迷惑も考えずに、好きなように生きればいいでしょう。でもわたしは、この世があるから次の世がある。自分の犯した罪は必ず償わなければならない。そうです、因果律の法則が支配していると信じたいのです。
この世のもので、何が真理で、何が不変でしょうか、そのようなものはないでしょう。
だから、わたしは欲望のままに生きる。そのようにしたいからそうする。そのために誰かが困ることになっても、ちょっと、良心がいたむけれど、自己の欲望には勝てません。
その結果なんて、どうでも良い、という考えもあります。
弱者をみて、負けたくなかったらがんばれといいます。がんばらないお前が悪い、という理屈をつけて自分を正当化する。
これは強者の論理です。弱者が弱者になったのは、何も本人の責任ではないかも知れません。社会のシステムが、神の御心がそうさせたのかもしれません。だから、神様から見れば、両者は平等です。
だからといって、弱者の生き方がそのままで良いかといえばそうではありません。弱者も神を認めなかったら、強者に対して窮鼠猫を噛む、という行動、罪を犯すかも知れません。
それは、社会を混乱させる要因にもなります。弱者が強者に立ち向かう手段は暴力か、より弱い者にはけ口を求めるしかないからです。
人間は、どのような状態になっても自分の存在を否定されて生きることは出来ません。この世に生まれてから死ぬまで人間は自己の存在を主張しながら生きています。
だれでも人間は、人に愛されたいのです。認めて欲しいのです。神様は言われます。愛して欲しかったら自分のように無条件で隣人を愛しなさいと。
人間には、良心があります。理性があり、知性があります。動物は、遊びのために食べないと言われています。
人間は、遊びで食べます。残れば捨てます。食べすぎて肥満になる人もいます。それが病気なら話は別ですが、わたしたちの身体は、コントロールされていなければ正常に働きません。
暴飲暴食は、今すぐ問題が起らなくても将来必ず身体の異常をきたします。それが結果です。それは理性で食べるものをコントロールしなさいということ。
このような人も、神様を知れば、人生の意味と、目的を知ればもっと自分を大切にし、貧しい人にも目を向けるよう
になるかもしれません。
人間は、老人を見ては自分の若さを驕り、病人を見ては自分の健康を驕り、死者を見ては自分が生きていることを驕り、少しでも人より多く財産とか権力をもてば自分は優秀だと驕ります。
妬みとか驕りという煩悩は、仏教では、修行といって肉体を痛めて克服します。キリスト教は、神の聖霊の働きで克服します。
最後に、最近一人っ子が増えてきたと聞きます。一人っ子は甘やかされ放題に育てられるのが常です。そうすれば、子供は何でも自分中心が当たり前。受けることや戴くことを当然と考える傾向があります。
そのような子供が大人になると、世界は自分を中心に回っていると思っているような行動をとる大人になるかもしれまっせん。
そのような人を社会に適応させるのはなかなか大変です。権利ばかり主張して義務は果たさない。自分は努力をしなくて棚からぼた餅ばかりを考えている。
そのような人も神様を知れば、働く喜びとか与える喜びを知り、弱者に目を向けられる人間になるかもしれません。
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