社会になじめない人々
世の中は、最近どうなっているのでしょうか。人々はなぜそんなにいらいらしているのかと思うことがあります。この数年前からその兆候が特に増えてきたように思います。
大人も子供もいらいらする時代。それだけストレスがたまっているのでしょう。どこに原因があるのでしょうか、経済の問題でしょうか、社会の仕組みにあるのでしょうか、それとも家庭とか学校における教育の問題なのでしょうか。これらすべてが原因かもしれません。
同じ電車の中で暴行されている女子を、見て見ない振りをしていた乗客のニュースもありました。
これなどもう少し何とかならなかったのかと思うのですが、自分がその乗客の中にいたらどうしていただろうと考えると自信がありませんが、せめて、犯人に悟られずに乗務員に知らせる方法は無かったのだろうか。
無法がまかり通る社会がここにあります。この犯人も、社会と正常な関係を築けなかった一人でしょう。
電車の中での飲食、携帯電話での会話、ヘッドホンから漏れる大音量、電車の中での大きな声での仲間同士の会話、一歩外に出れば不愉快なことがあふれています。
若い人同士、それも二十歳くらいの人の会話を聞いていて気がついたのですが、会話になっていないのですね、相手の言ったことに答えていないのです。
当事者同士はお互い自分の言いたいことだけを言っているだけ。それでも仲間として集団で行動している。これは不思議に思いました。
後で別の若者に何故こうなるのかを聞いてみましたら、自分が傷つくのがいやだからという答えが返ってきました。相手の言っていることを真剣に聞いていたら、自分が傷つくことがある、それが怖いし、疲れるということです。
傷つくのが怖いと言うのは、他人の目を気にして、自分をよく見せようと思っているからでしょうかね。
そのような会話をしていたら、思考は停止してしまいます。何とひ弱な、と絶句しました。わたしの知人は、おそらくゲームで遊ぶことしか知らないからでしょうと言っていました。
このような、人間関係を築けない、会話の仕方を知らない、傷つきやすくひ弱な人間。それでいて自尊心が強く無視されるのを怖がるというのはどのように考えればよいのでしょか。
社会に出れば、社会に適応できなくて、ニートになるのでしょうか。親の庇護のもとにいつまででも暮らせればよいが、親が亡くなればどうするのでしょうか。人ごとながら気になります。
ニートと言えばこのようなことがありました。ニートの人に、このまま四十歳になればどうするの、そのときはどうしょうもないよ、と聞いてみましたら死にます、と言う答えが返ってきました。
もう一つ、両親亡くなったらどうするの、と聞いてみましたら働きます、という答えが返ってきました。これはもう完全に思考停止ですね。現実が分かっていない。何が問題かも考えようとしない。夢も希望もない。
人間は集団生活を営む動物です。会話と思考をもって集団の中で集団生活のあり方を学び自律した人間に成長していくと思うのですが、そのような若者が大人になればどのようになるのでしょう。
自分が人を責めるときは、相手のことも考えずに、相手が謝っていても容赦なく徹底的に責める。
これなど、愛を持って人に接する心を持たない典型的な姿です。ひとたび相手の弱みを掴んだら徹底して責める人の罪なる性、傲慢が、自己中心性がそこにあります。
逆に自分が責められているときは、分けのわからない理屈を述べて、逆切れするか逃げてしまう。
攻めるに強く守りに弱い人、このような人は、心に余裕の無い人でしょう。自分のことしか考えない人、自分が世界の中心と思っている人だと思います。本当に難しい世の中です。
そのような人と同じ社会人の一員として関わるには、忍耐しかないのであろうか。それとも向こう傷を覚悟して教え諭すべきでしょうか。
この問題は、やはり社会全体で考えるべき問題でしょうね。その様な人が多くなると、必ず将来大きな社会問題として返って来ると思うからです。
殆どは、年齢を重ねると、また社会に出ていればそう言うことも自然になくなり、社会になじんでいくと思いますが、いかがでしょうか。
一部の人は、落ちこぼれという存在になるかもしれませんが?しかし、何を持って落ちこぼれというのも、多様性のある人間社会では難しいところがあります。
公的空間と私的空間の境界が認識できていない人々、大勢の中にいながら他人の存在を、人の目を気にしない人々、世界の中心は自分、だからマナー違反を注意されたら素直になれず逆切れする。
キレ安い人は打たれ弱い人、自分の非が分かっているから、そこを責められたら逆切れするしかない、謝ることの出来ない人々。
もう少し、謙遜し、へりくだる心を持っていたらそのようなことも随分なくなると思うのですが。
これまでに書いた現実の社会問題は、すべて共通したものが根底にあるように思います。しかもその原因は一つや二つではないと思います。
そのような人を、個人の問題として切り捨ててしまうのもいかがかと思うのですが、何か解決方法はないのかと考えさせられます。
人との付き合い方を覚えるのは実体験でなくてはだめだと思います。やはり子供の頃から、子供同士が自由に遊べる場所とか機会を作ってやることも必要でしょう。遊びの中で人との接し方が自然と身に付くと思います。
そのようなことを考えながら散歩して公園に着き、本を読んでいたら、子供たちが歌う賛美歌が聞こえてきました。
思わず嬉しくなり指導者と思われる人に声をかけると、やはり、キリスト教会の子供伝道の人たちでした。和やかに会話を交わしましたが、楽しかった。
平和なひと時でした。このような、ささやかなれども楽しい時間を下さり神様ありがとうと、感謝しました。
人間お互い罪深くて弱い存在、まったく罪のない人など1人もいません。みんなお互い様、自分の罪深さが分かれば人を裁くことなどできるわけがないと思います。
よく「愛されて育った人は愛することを覚える」といいましが、愛する心を持つには、それだけでは足らないように思うのです。
権利は主張するが義務は守らない。自分は、社会の一員であることを自覚しないで、人のことよりも自分が愛されることだけを考えている。このような若者が多いのは、人間が自律していないところに問題があると思うのです。
社会の一員であることを自覚し、愛する心とお互いを尊重する心を持つように教育するのが大切かと思います。
イエスは言われました、新約聖書マタイによる福音書第7章12節「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」
これこそ、お互いを思いやる心を持つ、謙虚な気持ちで人に接する自律した人間の姿ではないでしょうか。われわれも、厳に自分に誡めねばと思います。
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