大学全入時代
毎年5月末には、大手企業は翌春の新卒者の内々定が済むといいます。中小企業は大手企業が済んでから始まるということです。
秋には殆どの学生の就職先が決まってしまう。企業は優秀な人材を集める為いち早く新卒者を囲いこむ、これを青田刈りというのですね。
大学全入時代といいますが、これは数字のマジックで、行きたい大学へ行くのはますます難しくなります。
なぜなら、行きたい大学は有名大学とか就職に強い大学、あるいは通学に便利な大学となります。
これらの大学は、恐らく都会にあるでしょうから都会に住んでいる人はやはり有利になります。そういう大学にますます学生が集まります。そして大学間の格差はますます広がります。
地方の大学は、よほど特徴が無い限りますます生徒を集めるのが難しくなります。
入学する機会は平等でなくては、と聞きますが、こと大学については機会平等はありえません。
なぜなら、学費の問題があります。調べてみると、4年間の学費は、自宅から通学する場合でも最低500万円以上の学費が必要となります。学部によっては、四年間で1000万円以上の学費を必要とします。
有名大学に入学させようとすれば、そのために進学塾に通う費用及び下宿代を含めるととんでもないお金が要ります。
子供が1人ならまだしも二人三人となるともう普通のサラリーマン家庭では手におえません。それに地方に居住する学生が都会の大学に入学すると、下宿代が要ります。
これはもう機会平等とはいえません。そのような大金を出せない親の子は、勉強が出来ても大学へは入れません。これが現実です。
有名でない大学はお金が要らないかといえば、都会の大学であれば、通学が便利なのでそれなりの生徒が集まり競争率も相当高くなります。大学側も当然学費には強気です。
大学には誰でも行けるから、いかなくても良いという考え方もありますが、就職する際、大学卒業生ばかりの中に高校卒業生が入ると、やはり子供がかわいそうです。
大学全入時代だから最低大学だけは出してやりたいと思うのが親に気持ちでしょう。
子供には、人生最初の出発のときくらい、横一線に並ばせたいと思うのは、親の気持ちでしょう。
しかし、よく考えると、神様からもらった賜物は大学を出なければ活用できないものなのでしょうか。わたしはこれからの生き方は、自分の賜物を生かすための場所をさがすことだと思っております。大学全入時代を迎え、特にそのように思わせられます。
わたしは、なにもそこまで苦労して大学卒業というレッテルをとらなくても幾らでも生きる道はあると思うのですが。大学卒に捉われなかったら、随分楽になると思います。
事務職に向いていないのに、事務職をさせられ随分苦労している人を何人も知っています。
その人は、定年をすぎてから営業職につかれましたが、いまは生き生きとされています。自分に向いていない仕事と言うのは、辛いものです。30年も40年もやりたくない仕事をするのですよ。
会社では、わがままは許されないので、ときには向いていない仕事をやらされます。ですから当然仕事も満足には出来ません。
上司に叱責され、同僚に迷惑をかけそれは大変です。会社で恥をかいても、家族を抱え、住宅ローンを抱えているからやめたくても辞められない。
まさに地獄です。最近中年男性の自殺が多いと聞きますが、職場いや職務との性格の不一致も原因の一つかも知れません。
神様は、何が何でも大学へ行きなさい、とは言っておられないと思います。この人生を自分の賜物を活かして歩きなさいと言っておられると思います。
就職活動は、いろいろな会社ではなく、いろいろな仕事を探すのが大切ではないでしょうか。そこには、会社の大小は関係ありません。もちろん自営業もいいと思います。自分の持った賜物を生かせるかどうかが選択基準です。
大企業に勤めても、昨今のことですから一生涯安泰とは限りません。せっかく無理をして大企業に入っても、いつリストラに合うか、倒産すら考えられます。
逆に中小企業に勤めた方が、自分の仕事が出来て、仕事をしていく上での制約が少なく、のびのびと仕事が出来るかもしれません。いわゆる、自分の居場所を見つけられる職業につくのが大切かと思います。
神様は、なぜ人間一人一人をこのように違ってお造りになったのでしょうか。それは人間を造ったのに目的があり、目的の為には一人一人を違って造る必要があるからだと思います。
みんなが健康でみんなが同じ性格でみんなが同じ能力であれば、この人生随分違ったものになりますね。
人間一人一人の顔姿が違うように、性格も、能力も、健康ももって生まれたものが全部違います。神様は、必要があってそのようにされています。
そのように考えると、与えられた賜物を精一杯生かして、その上で成功したら、謙虚でありなさい、弱者を助けなさい、わたしはそこにいると神様は言われていると思います。
さて、あなたの賜物はなんでしょうか。聖書には、自分の能力はすべて神様からもらった賜物だと書いてあります。わたしがあなたに預けた能力は、使い、生かし大きく育てて欲しい、と神様は言われています。
才能は100%活用するように求められる。そして、活用して得られた目に見えない身に付いた果実だけが次の世に持っていけるということでしょう。
神様は、人間一人一人をその人に最もふさわしい目的を与えてこの地上に使わされた。あなたの、能力はそのためのもの。自分の人生を生きなさいと神様は言われている、と思います。
本を読むのがすき、機械をいじるのが好き、運動がすき、大工仕事が好き、芸事をするのが好きほかいろいろ。
何も好きなものが無くても、何不自由のない健康も賜物、不自由な、病弱な人から見れば羨ましいほどの賜物です。
だけどよく考えてみると、この人生は神様からいただいたものだから、人生そのものが神様の賜物と言えるでしょう。
もちろん、その賜物の能力には個人差がありますが、神様がその人にと指定してくださったもので、これは思い通りになりません。
だから賜物の能力を比べるのはナンセンス。神様に不服を言うしかありませんが、意味あってのこと。たぶん聞いてくださらないでしょう。
だけどあなたはこの世で唯一無二の存在。世界六十億の人間の顔が全て違うのと同じようにわたしたちの代役もいません。この辺で、少し発想を変えてみませんか。
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コメント
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今はどこも全入時代ですよ東大ですら秋入学といってがんばっていますから、私は大学職員ですが頑張りましょう!
投稿: 永田 | 2014年6月28日 (土) 21時46分