空の空
人間は、科学が大きく進歩し、色々なことを理解し、知ることになりました。しかし、それはそこにあるものの仕組みが分かり、活用する方法を発見したと言うだけです。未だに有から有は作り出せても、無から有は作り出せません。
しかし、最大の難問は人間自身の問題だと思います。肉体にしても魂にしても心の問題にしても自分自身については解らないことばかりです。
今日まで、この人間というものの謎はさまざまな形で語られてきました。
古代の人は現代の発達した時代から比べると無知であったかというと、こと人間の理解に関する限り決してそうではないと思われます。
人間そのものの理解に関しては、3000年前からなんら進歩していないように見受けられます。
人間の心ほど解りにくいものはないと思われますが、最近は科学が発達して、深層心理にもそれは及んでいるとききます。
しかし何と言っても、昔から人間のことをいちばん多く語ってきたのは宗教であります。
宗教はギリシャの文化の中で哲学という形をとりましたが、その哲学も含めて古来どの民族もそれぞれの宗教をもってその中で人間の理解を、人間とはこういうものだということを伝えてきました。
それら多くの宗教の中で、人類の歴史に最も大きな影響を及ぼしたのはイエス・キリストでした、そして、聖書でした。
見えないまことの神が聖書を通して働かれているという、この約2000年の歴史的事実。そして今も、聖書を読んでイエスを信じるものが起こされているという事実。
人間を知るよりどころは、生ける神が働かれる聖書の言葉しかありません。では聖書はどのように人間を語っているのか。今回は聖書からみた人間の姿を学んでみたいと思います。
聖書では、神の存在をどこか遠いところに居られる抽象的な方でなく、あくまでも具体的な人間個人と、人間の歴史を通しての関わりの中でその存在を示されています。
つまり、人類救済の為に選ばれたイスラエル民族の中に預言者を通して神は働かれました。そこには、人間の目には見えない神が示されています。
そして、神は最終的にイエス・キリストの福音という形で人間にメッセージをのこし、今もわたしたちに働きかけられておられます。
わたしは、聖書をよく知らないときは、聖書は、何か神様が口移しに語られた言葉をそのまま書き留めた書ではないかと思っていました。
ところが聖書に接すると、聖書は神の啓示により書かれたといいますが、何も一字一句書く内容を神が示され、人間が神のロボットになって書かれたわけではありません。
人間が人間の思いと言葉で書いたもので、信仰者の信仰告白とも言えます。
今回は旧約聖書の中の「コヘレトの言葉1章2節11節」を見たいと思います。
これは旧約聖書の中でもかなり後期、と言っても、紀元前900年以上前ですが、いちばん最後の時期に書かれたもので、イスラエルがギリシャ文明の影響のもとにあった時代で、イスラエルの人々もギリシャ的な知恵をもって考え始めていた時代の書であります。
コヘレトは言う
なんという空しさ
なんという空しさ すべてが空しい。
太陽の下、人は労苦するが、
すべての労苦も何になろう。
一代過ぎてはまた一代が起り
永遠に耐えるのは大地
日は昇り、日は沈み
あえぎ戻り また昇る。
風は南に向かい北へ巡り、巡り巡って吹き
風はただ巡りつつ、吹き続ける。
川はみな海に注ぐが海は満ちることはなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。
何もかも、もの憂い
語り尽くすこともできず
目は見飽きることなく
耳は聞いても満たされない
かつてあったことは、これからもあり
かつて起ったことは、これからも起る。
太陽の下、新しいものは何一つない
見よ、これこそ新しいと言ってみても
それもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった。
昔のことに心を留めるものはない。
これから先にあることも
その後の世にはだれも心に留めはしない
ここでコヘレトと呼ばれている人は、イスラエル民族三代目のソロモン王であると言われていますが、ソロモン王は聖書によると、神から最高の知恵という賜を与えられた人物でした。
また最高の権力をもち、豊かで手に入れたいと思うものは何でも手に入り、幅広い知恵をもつ人物でした。それでも、形は変わっても昔も今も結局人間の姿は同じでした。
この詩の内容を現在の私たちの心に当てはめても、そっくりそのまま当てはまります。この世は空の空、この世の労苦も何の意味があろう、といっています。
どのようにがんばっても、また次の代が起り忘れられていく。だからこの栄華を極めたソロモン王がやってきたことも一切は無意味で、一切は空しい、という結論に達しています。
聖書を読んでいると、古代も今も人間は、生活の苦労や仕事の苦労、恋の悩みなどわれわれと同じようなことを感じ、やっていたことが分かります。
当時とは、生活環境などずいぶんと違っているでしょうが、それにもかかわらず人間がしていることは今と変わらないのです。そこには、人間の現実の生活があります。
だからそこに書かれていることが、真実だと思えるのです。
どのように科学が進歩しても、人間の本質は、思考回路は3000年前と殆ど変わっていません。人生は空の空、同じことの繰り返しといっている。これこそ新しいことだと思ってやったことでも、かつて人がやったこと。
今ある人も、いずれは死に忘れられて行く。これから先にあることも、その後の世には誰も心に留めない、と言っています。
まことに、今の世のわたしたちの人生を振り返ってみても、3000年前と全く同じ疑問を持ち、心むなしくして生きています。
見よ、これが新しいものだと断言できるものはないというのが、ソロモン王のころの人間の結論であります。
どんなに財産や地位や名誉を得ても何の意味も無い。次の世に持っていけないし、わたし自身もいずれは忘れられていく。
これこそ、空の空。何が真実だろう、真実なんて何処にもない。ああ、いやだいやだ。
この詩を読んでいると、ニヒリズムに陥りそうです。人間の姿を深く見つめ、理解すればするほど、あわれな人間の姿と、人生の空しさがこみ上げてきます。
刹那的に生きる、現在の若者の心がわかるように思えるのはなぜでしょうか。
イスラエルの社会が、そのような閉塞的な状況にあるとき、時代の終末に、イエスはこの世にこられました。そして、神の支配の到来、神の恵みの時代が到来したことを告げました。これが福音です。
この人類の数千年の歴史で、もしこのイエスの福音という新しい事態がなかったら、人生これほど無意味で空しいものはない。それほど、このイエスの福音は人類を驚かす大変な出来事であったのです。
イエスがこの世に来られて、次の世があることを、神の支配がはじまったことを教えられました。その結果、わたしたちのいままで無意味と思ってきた人生が一変しました。
そして、分かったことは、わたしたちは大切な存在で、その人生は意味あるということなのです。そして、今からすべきことを教えておられます。それは、わたしを信じなさいと言うことです。
わたしがこのことを始めて知ったのも、約十年前、以降イエス・キリストに捉われた人生を送っています。もう少しで、このことも知らずに人生が終ってしまうところでした。
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