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2008年7月28日 (月)

人それぞれの生き方

人生は、様々な見方があります。様々な生き方があります。その人が自分の人生をどのように見るか、どのように生きるかで、その人の実際の生き方と、将来に大きな影響を及ぼします。

もちろん、何も考えずに流されるままに生きるという生き方もありますが、それでもその時その時に何等かの人生の選択をしているのも事実です。何もしないという選択も選択です。

聖書は、人間は神様が創造された被造物で、人それぞれ違った賜物が与えられているのだから、人によって生き方が違ってくるのが当たり前、というのが前提です。


その人の人生に影響を与える情報はそれこそ無数にあります。生まれもって与えられた賜物、育った環境、出会った知人友人それこそ取り上げたらキリがありません。

だから人それぞれの生き方も違います。人それぞれのオンリーワンの人生です。自分の人生は自分が主役、周りの人は皆脇役です。

自分を生んでくれた両親とか生まれ持って与えられた賜物とか育った環境とかは、もちろん自分の生まれた時代も含めて自分の力ではどうしょうもありません。神様から与えられたものといえます。

自分が今のこの時代の、日本という国に、自分の家族、自分の仕事、友人知人関係ほか今のこの環境に神様はわたしを必要があって置かれた。という考えで人生を見てみるときっと面白いものが見えてくると思います。

だから自分の人生を大切にしなさい、といわれても、現実の人生のどこが大切なのか、どこが二つとない人生なのか、このようなくだらない人生、だらだらと生きているだけと思う事もあります。

そのような人生でも、人生を見る観点というか価値観を変えれば何かが見えてくるのではなかろうか。自分を見る価値観が世間の価値観と同じだから自分の人生もくだらなく見える、ということもあると思うのです。

世間の尺度で自分を測らず、神様の尺度で自分を見てみたらいかがでしょうか。

聖書は、イエスの御言葉を信じることを求めますが、信じる者はみなこのような生き方をすべきである、と画一的な生き方を押しつけることはしていません。

人の生き方を決める素質や状況は様々です。それに従って生き方が違ってくるのは当たり前です。それぞれ違ったものを持ちながら同じ生き方をしょうとするところに無理があります。同じ価値観でものをみるところに無理があります。

イエスは、その違いを認めて、どのような生き方をしている者にも神の子としての同じ地位を認めておられます。

どのように身分の高い人でも、平社員でも、どのように優秀な人も、財産を持っていても、橋の下に住んでいても神の下には平等であるということです。

日本には、しっかりとした神意識がありませんから、このような平等意識は育たないでしょう。法の下に平等とは言いますが、法律は人間が作ったもので普遍ではありませんし、あくまで相対的です。

また聖書は、生き方の違いが神様の賜物によるものであることを語っていると思います。生き方そのもの、人生そのものが神様の賜物であると述べているのです。

その生き方を知るためにも、あなたは造られた者です。あなたの創造主を覚えなさいと教えています。

あなたの人生は、あなたの能力や努力の成果ではなく、それらすべてが資格のない自分に創造主が恵みとして与えてくださった賜物に他ならないと語っています。

ですから、どのように成功しても自分の生き方を誇ったり、他人の生き方を批判し軽蔑したり、妬んだりしてはいけないといわれています。

イエスは、まずあなたの造り主である神様を愛しなさいと言われる、次にあなたの隣人を、自分を愛するように愛しなさいと言われています。

これがこの世を生きていく上での物事の価値観の判断基準だということです。

多くの賜物を与えられている人は、神様に、隣人に多く仕えるために与えられているのです。その仕えかたも自分に与えられている賜物の量りに従って人に仕えていけばよいのですから、焦ることはなにもない。

だいたい、創造神がいることを認め、自分が造られた存在であることを認めたら、自分が存在していること自体が賜物であることがわかります。わたしの生も死も、そして人生もわたしを造られた方の創造の目的の内にあるのです。

頼んだ覚えもないのにわたしを造っておいて感謝しろといわれても、という素朴な疑問もあります。

しかし、わたしたちは少なくとも事実この世に生れて現実に生きているのです。不平を言って一生を送るのも、造り主に感謝して一生を送るのも同じ一生ならば造り主の喜ばれる一生を送ったほうがきっといいことがあると思うのです。

神様の望まれる生き方は、人生の価値判断基準を地位とか名誉とか支配欲とか財産から神様と隣人への愛を基準にして、自分の分に応じた生き方だとおもいます。

それが、神様の御心に添った生き方となるので、きっと、そこには平安と歓びがあります。

「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。」(新約聖書コリントの信徒への手紙I 第7章7節) 

人生すべてこれ神様の賜物。神様からただでいただいたもの。この認識があれば、どうせただで受けたのだから、ただで与えるのに何の苦労があるでしょう

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(新約聖書マタイによる福音書 10章8節) 

この御言葉は、神の支配、神の恵みの時代での生き方を実践的な形で指し示しています。「ただで受けた」というのは、造られたものの存在を示しています。
いまわたしが生かされているのは神様の恵みのほか何も無い。だから、わたしがいまもっている賜物には、わたしは何の権利も持たないのです。

イエス・キリストを信じるということは、わたしの罪の贖いの為に十字架上で死なれたキリストに結びつけられてわたしが死ぬ、すなわちイエス・キリストにすべてを委ねるからわたしがキリストに合わせられて今までの罪の中にあった自分は死に、罪がぬぐわれた、神と共に歩む新しい人生が始まるのです。

罪にあるいままでの人生に死んで、この世の誇るべきもの、つまり、財産とか権力とか地位などを捨てたわけではないが、これらはすべて神様からのいただき物という捉え方になるわけですから、世界は今までとはまったく違った様相を示します。

それまでは自分の働きや価値が正当に報われていないという不満とか、自分の能力とか努力で得たものだという誇りが心の奥底に渦巻いていましたが、

ここでは現在の自分が受けている、現世で価値のあるものすべて、そうです自分の存在そのものまでもが、それを受けるに値しないわたしに対する父なる神からの賜物として感謝すべきものとなるのです。すなわち価値感の大転換となるのです。

だから、自分の持っている物は神様からの戴きものだから、ただで与えることが当然の生き方になるのです。だから相手の価値とか資格を問うことも、自分に対してなされた働きの善悪を問うこともできなくなるのです。

どのような相手にも自分が神様から受けた善きものを与えることが当然のことになります。

そういう認識が生まれて初めて、この時代において、見返りを求めないで、無条件で隣人を愛する生き方ができると思うのです。

イエスはこのことを、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と言い表されました。

原罪を持ち、サタンの影響が大きい現世を生きる生身の人間は、そのような境地には自分の努力ではとうていなれません。イエスもそのようなことを期待してはおられません。

イエスはわたしの御言葉を信じたらそのようになれると言われています。そうであればわたしの信仰はまだまだ未熟そのものです。恥ずかしいと思います。

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