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2008年6月 5日 (木)

罪について

罪そのものついて考えて見たいと思います。キリスト教では、罪は人の神に対する罪をいいます。人に対する、社会に対する罪ではありません。

聖書では、罪は神に対する人間の“負債”と言う言葉でも喩えられています。
この人間が負う罪という負債は、約2000年前に、神の御子イエスが人間の罪を贖うための生贄として十字架に架けられたことにより一方的に免除されました。


それもすべての人間の罪が免除されました。だから、イエスは言われます。わたしはあなた方の罪を赦したのだから、他の人のあなたに対する罪である負債を免除、つまり赦しなさいと言われます。


そんな馬鹿な、わたしは罪もないし、頼んでもいないのに勝手に罪を作り免除してそれを恵みだといって恩を着せても知りません。といいたいのですが、そうではないと言うのがイエスの教えなのです。

そのことを理解するのは、創造主である神がおられることを認めることから始まるのです。創造主である神の存在を認めないのなら何も始まりません。

人間というのは、他人の欠点や失敗にはすぐに気づき、他人にはなかなか寛容にはなれません。口には出さなくても心の中で裁いていることもたびたびです。それも理性で判断してではなしに、思わず反射的に裁くのです。それが人間なのです。

反面、自分の罪や欠点には、なかなか、気づかない、いや気づいていても認めようとしない弱さをだれもが持っています。だから自分に不利だと思ったら反射的に相手を攻撃するのです。

そして、言わなくてもよいことを言ってしまうのです。

日本人は、罪と言えば即、刑事犯罪を想い起こすのではないでしょうか。そうでなくともあなたには罪がある、あなたは罪人だと言われれば良い気持ちはしないでしょう。

そんな馬鹿な、わたしは何も悪いことはしていません。真面目に働いて家族を支えています。ましてや物を盗んだこともありません、といってもキリスト教では、これでは不十分なのです。では、キリスト教の言う罪とはいったいどういうことなのでしょうか。

新旧約聖書には、あわせて700回を超える罪を指し示す語が用いられているということです。

聖書に登場する罪という言葉は、被造物である人間が創造主である神から離反することであると説明されていますが、聖書でつかわれている罪という言葉は、本来「的(マト)を外す」という意味だということです。

つまり、的と言うのは、創造主である神が求められること、意志・御心をいい、そこから外れていることを言いあらわしています。

その状態を原罪というのですが、イエスは、そこから派生する思いの罪も罪だと教えています。悪いことを思っただけで罪なのです。もちろん、思いの罪は行いの罪に通じることになります。

旧約聖書の創世記には、「神はご自身にかたどって人を創造された。」と書いてあります。(旧約聖書・創世記1章27節・新共同訳より)

創造主である神の姿にかたどられた、かたどられてということは、人間は創造主である神に愛されて人格的に交流できる者として創造されたということだと思うのですが、

しかし、現在の人間の始祖であるアダムは、創造主である神の愛の中にとどまり、神と共に歩むことを拒み、創造主である神の意志、御心に反し、食べてはいけないと言われていた善悪を知る果実を食べてしまいます。

神は人間が人間であるために他の動物にはない、自由意志を人間に与えましたが、その自由意志を悪い方に使ってしまったのです。

神の霊、聖霊が人間に内住して初めて創造主である神と交流できるのですが、人間はその意識を神から離反させ、神の御心に無関心になったために、神との交流は途絶え、神の霊、聖霊は人間から去っていきました。

神との交流ができなくなった人間の性質、自分で善悪を判断する性質は、アダムの子孫であるわれわれにも受けつがれていきます。

神の守りが亡くなった人間は、この世の闇の支配者、サタンの影響をもろに受けるようになり、罪を犯すことが日常になり、人間は何が罪かもわからなくなり、ますます神から離反してしまいます。

この出来事こそ、人間の罪のそもそもの始まりなのです。それ以後、人間は罪の中をさまよい歩くことになります。その結果が、現世なのです。

「取って食べるなと命じた木から食べた。お前ゆえに、土は呪われるものになった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。」(旧約聖書・創世記3章17節)

この聖句のように、人間は神の保護から離れ、この地上を生きるために働く苦しみと、産む苦しみを負って生きなければならなくなったわけです。

しかし、人間を造られた神は、もともと被造物である人間を愛し、ご自分と親しく交わる関係を望んでおられるわけです。神は人間がわが子を愛するように人間を愛しておられるのです。

ですから、神は罪を負って生まれたアダム以降の人間と、愛するゆえに人間の罪をぬぐい、関係を取り戻そうと思われたのです。

その思いが実現したのが2000年前のイエス・キリストの十字架の出来事となって啓示されたのです。またこのことを明らかにしているのが聖書なのです。

人間はときとして現実的な罪を、つまり、倫理的な、犯罪的な、その他さまざまな過ちを犯します。それらはすべて、人間の本来的なもの「神の御心から外れている状態」が引き起こしているのです。

人間はこの世に生きている限り、大きな犯罪、小さな犯罪、行為に至らなくても、つまり、思いの罪も毎日無数に犯し続けているのであって、それらはすべて神の御心に沿っていない、的はずれなのです。パウロはローマ人への手紙で語っています。

「肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。」(新約聖書・ローマ人への手紙8章7節)

人間は創造主である神を恐れず、信頼せず、自己の思いに立ち自分の欲望に押されて行為に走ってしまうのです。これを人間の自己中心性といいます。

また、人間は、創造主である神の御心に背いたために、自己中心に物事を考えるようになりました。それが思いの罪に派生して行いの罪に派生するようになりました。

神の御心から離れ、神と共に歩むことを拒否した良心は、行いの罪をある程度制御しますが、思いの罪まで制御することは出来ません。それは、無意識に罪を犯してしまうわたしたちを見ればよくわかります。

思いの罪は、自分の力ではなかなか制御できません。だから行いの罪も制御できません。罪を犯していることを自覚できない場合もあります。

この矛盾をなくす方法は一つしかありません。それは神様との交流を回復し、わたしたちの潜在意識を神様に明け渡すことなのです。

自分が罪の中にいるということは、キリストを信じたら、創造主である神に意識を向けたら、神の霊、聖霊がその人の中に入り、自分の行為や考え方そのものが、的をはずしていることを、罪が何かを自覚させてくれます。

聖霊は人間の潜在意識を支配し、サタンの影響から守ってくれます。つまり、罪が入る以前の、神との交信ができる状態にあったアダムに戻るわけです。

このように、キリスト信仰というものは、決して罪を責めるものではなく、わたしたちに罪を示し、神に似せて造ってくださった神の愛に立ち帰えらせることなのです。

それは、親に反抗して道に迷ってしまった息子を必死で自分のもとに連れ戻そうとする親の愛なのです。

創造主である神は、人間に対する愛を、わが子イエス・キリストの十字架の出来事をもって人間に示されたということです。

神の子イエスの教えを信じることによって信仰者の心の中に生まれた、自分の罪という認識は、人間を責めるものでなく、人間に絶対者で創造主である神の存在と神の愛、自己の弱さと無力さを示します。

創造主である神はそのような、罪の中に沈む人間のありのままの姿を知っておられ、愛するがゆえに、わたしの元に戻ってきなさいと言われています。

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