自分に与えられた能力
あなたは自分の能力を生かし切っていますか。そう聞かれれば、はてどうだろう、と大概の人は首をかしげる、いや、自分に能力ってあるのだろうか、と考えてしまう。それに関することを聖書で調べてみました。
聖書には、自分の能力は、神様からもらった賜物だと書いてあります。わたしがあなたに預けた能力は、使い、生かし大きく育てて欲しい、と神様は言われる。
才能は100%活用するように求めておられます。わたしは、人間一人一人にその人に最もふさわしい目的を与えてこの地上に使わした。あなたの、能力はそのためのもの。
自分の人生を生きなさいと神様は言われているように思う。
自分に与えられた賜物の価値に早く気がつきなさい、といわれているのでしょうか
与えられた賜物を用いながら人生を歩みなさい、と神様は言われているといっても、わたしの賜物は何だろう、とふと考えてしまう。
ところが、よく考えるとそれがあるのですね。本を読むのがすき、機械をいじるのが好き、勉強が好き、運動がすき、芸をするのが好き等々・・。
いやいや、目立たないけれど当たり前のものも、たとえば、何不自由のない心身とか健康も賜物、身体の不自由な人、病弱な人から見れば羨ましいほどの賜物です。
もちろん、その賜物の能力には個人差がありますが、その個人差は神様がその人にと指定してくださったもので、これはわたしたちの思い通りにならない。
だから賜物の能力を比べるのはナンセンスだと思う。神様に不服を言うしかないが、それは神様の目的があってのこと、たぶん聞いてくださらないでしょう。
だから逆にいえば、個人個人はこの世で唯一無二の存在。六十億の民の顔が全て違うのと同じようにわたしたちの代役もいない。
理屈はそうでしょうがもうひとつ納得できない。でも、いえることは、もし自分の賜物が自覚できて、それを精一杯活用できたら人生は楽しくなると思うのです。そのように、人間は造られているから。
どんなことでもいい、一生懸命になっている人間の姿って、美しいと思いませんか。それはその人に一番合っている姿だから、その人が造られた目的に一番合っているからだと思いませんか。
神様が臨んでおられることだからと思います。目立たないけれど、一つのことを何十年と、もくもくと続ける能力も賜もの。継続は力なりともいます、将来大きな成果に結びつくかも知れません。
大きな成果を先に考えて、わたしはダメだと思わずに、自分に出来ることからはじめることが大切かと思います。神様は努力と忍耐を求めておられると思います。
弁護士になりたいので神様にお願いしておこう。何でも聞いてくださる神様だから、自分は何もせずに寝ていてもちゃんと試験に受からせてくださる、そのようなことはないと思います。
当事者が決心し努力しなかったら神様も助けようがないと思うのです。チャンスは神様が与えてくださるが、それをつかむのは自分だと思うのです。
だから、貰った賜物を如何に有効に使うかが、課せられた役割りといえるのでしょう。未使用のまま彼岸へ持っていくのもいいが、そうすれば、持っているものまで取り上げられると聖書に書いてあります。
でも、いざとなると何をすべきかがわからない。このようなときは、何でもいいから今できることからはじめる、そうすればそのうち自分のすべきことが見つかると思うのです。
神様がちゃんと用意してくださっていると思うのです。
わたしたちは、トータルで自分という人間を生きるために、この時代に、自分に最適の時代に派遣された存在。各自に与えられた役割をこの世で果たすために。
具体的に言えば、大統領・首相・教師・医者・ビジネスマン・父母・夫・妻子・・・。これら全ては、その人にしか果たせない任務の為に神様から選ばれて今の時代、今の家庭、今の会社、今の職業、今の人間関係の中に派遣されている、という捉え方。
人間1人1人をよく見てみると、神様から与ったそれら賜物を十分に生かしている人もいます。一身専属のもので彼岸に持っていけるものは、それはこの世で培った経験とか努力の結実、賜物から生まれた大きな果実だと思います。神様に喜んで貰えるその人だけのものです。
神様は、賜物を活用して儲けた額ではなくフルに活用した者に賛辞を与えられる。それには、与えられた賜物は、そのままでは原石、磨き育てていく意志と努力が必要。
才能は一朝一夕にして大きく実らない。それを神様は期待しておられる。もちろん、身体の不自由な人にも、残された機能の活用を望んでおられる。
失ったものを数えるより、残された賜物を数えて、精一杯それを活用して生きなさいと言われているように思います。
賜物を使わなかった人は、使い切った人に与えられる、と聖書に書いてあります。そのときに、後悔して、ひがんで、泣き喚いて、歯軋りするような目にはあいたくない。
たとえ不十分に終っても、なにもせずにいて悔やむよりも、精一杯やって悔やむ方が、自分も納得できるし神様も喜ばれると思います。
賜物の使命が分かれば、「自分はこの世に何しに来たのか、人生如何に生きるべきか」の回答がきっと見つかるのでしょう。
人生が終るときしか分からない場合もあるでしょうね。それはそれでいいか。最後よければ全て良しです。一生懸命生きておれば、小さな成果でも満足を得させてくださる。
今日の聖句、新約聖書マタイによる福音書25章14節から30節に、賜物をタラントとして、天国の喩え話があります。
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