この世は、愛と忍耐を学ぶ場
わたしは若いときから、仕事に就くことを、人間としての課せられた義務だと考えていました。だからこの世に生まれて成人すれば、働くのは当たり前、働かない人生は考えられませんでした。
今の若いかたは知りませんが、わたしが若いころは誰でも働くことを当然のように思っていたと思います。
人は誰でも何らかの意味目的をもって働いていると思うのですが、
わたしの場合は、職業を持つことは、生きていくための糧を得る手段でありますが、反面それが社会に参加する手段であり、人々が助け合って生きている社会の一助となり、自分を訓練することになると思っていました。
そうすることがこの人間社会の中で生きていくために課せられた義務であり喜びであると思っていました。
イエスはこのように言っておられます。マルコの福音書第12章30節で、「第一の掟は、・・心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。第二の掟は、これである。隣人を自分のように愛しなさい。」、と。
もちろん、隣人には自分に不利益を及ぼす人もいるし嫌いな人もいる。そのような人も含めて、神を愛したら隣人を自分のように愛せると言っておられるのです。
そこには何の条件も無い。自分を愛するのに人は条件をつけませんからね。そして、これは自分の命令(掟)だといわれる。命令なら、嫌でも、その意味が分からなくても従いなさいということになる。
これは、それほど重要な、イエスが弟子に言い残した命令なのです。イエスの弟子にということは、もちろん、イエスを信じる者、クリスチャンすべてにです。
だから教会では、お互いを兄弟姉妹と言い合います。クリスチャンは、イエスを長兄とするイエスの家族なのです。
隣人を愛する、思いやるということは、容易く行い難しですが、神様を愛していればできるのです。それらのことは、人間関係を平和に保つには、ほかの何よりも必要不可欠だということです。
もちろん、この「隣人を自分のように愛しなさい」、というのは、相手の立場にたち、同じ目線で互いに助け合い、支えあいなさいといっているのです(ヨハネによる福音書第15章17節)。
詳しく言えば、自分が不利益になることでも相手が困っていれば1人の人間としての立場から助けること。その人が望んでいることをしてあげること。
嫌いな人は、好きになれということでなく、嫌いなままでも良いから、今目の前にいる嫌いな人に、人間として自分がなすべきことをなしなさいといっておられるのです。相手の人格を尊重しなさいということだと思います。
この世界には、悩みとか苦しみがなんと多いことか。戦争、難民、貧困、病苦そして、惨事・・・。人はそれぞれ自分の十字架を背負って生きています。イエスのいう愛と忍耐を実践する場としては最適です。
創造主である全能の神が、この世を支配されているにもかかわらず、あえてこのような世界を放置されているのは、人間に愛と忍耐を教えておられるとしか考えられない。
もちろん、神はこの世の出来事に対し、積極的にあるいは消極的にかかわらず関与されています。神に愛された人ほど、神に見込まれた人ほど、苦難に合うと考えられないでしょうか。
事実、キリスト教の歴史を見るとそのように思えます。
愛とは、相手の立場にたち、同じ目線で互いに助け合い、支えあいなさいということ。イエスは、隣人愛を実践しなさいという。
自分の周囲で自分を必要としている人を、自分に対するときと同じように助けなさい、あなたたちは支え合いながら人生を送りなさいと言っておられる。
ならば職業を持つのも、助け合う、支えあうことになるのではなかろうか。自分が仕事に就くことは、この社会を構成している、支えている一員になること。
そうすることが、この世に貢献していることになると発想できないだろうか。もちろん、報酬を得ることにより自分の家族の生活を支えていることにもなる。
わたしが着ているこの衣服、そして毎日食べている食物、これ全て人が作ったもの。そして、それらを与えてくださったのは神様のめぐみ。ならばわたしも何等かの方法で社会に参加すべきだと思います。
その結果、得られる日常生活をしていくのに必要なものは、自分が働いたお金で買ったのだから当たり前と思わずに、仕事に就けるのも、こうして生きていけるのも神様の恵みのお陰と感謝する。
こうして考えると、キリストの神ではなくても日本人は昔からそのような心で神棚を拝んでいたのではないだろうか。
絶対者の存在を認め、謙虚になることが何よりも必要なのです。人間が傲慢になればろくなことがないのですから。
職業につくことにより、社会に参加し、多くの人と交わることにより、人間が愛と忍耐の実践で訓練され成長する。こうして人間は神の愛のなんたるかを知る。神の愛が成就されるところには、平安と喜びが満ちる。
わたしは、ささやかな自分の無償の愛に対し、感謝された時の何とも言えないさわやかな喜びを経験したことがあります。
過去を振り返れば少なからず誰にでもあると思うのです。それは神の御心にかなっているからだと思います。
資本主義社会は、今のところ人間社会を維持する最善のシステムですが、所詮人間の世界は何事も相対的であることをわきまえて、どのような社会システムも、相対的であるかぎり、社会的弱者、敗者が生まれます。
それらの人々に配慮し、病の為に働けない人を助けることは当たり前で、たまたま自分は健康に恵まれて、強者の立場になったからといって自慢などせずに、自分が今あるのは神様の恵みと考えて神様に感謝する。
そのように考えれば、神の愛、隣人愛の実践も、すこしはできるかと思うのですが、毎日を生きていくのに精一杯の我々は、そのようにしたいと心で思っていてもなかなか行いに至らないのが現実です。
現世を生きている限りやむを得ないところがありますが、ただ神様にお赦しを乞うて生きていくしかありません。
でもせめて、そのような面から職業を見ると、仕事をもつことは、健康な人に課せられた義務といえるのではなかろうか。そのように考えれば、毎日のいやな仕事も少しは楽しく前向きにできるのかもしれません。
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